2017年06月13日
身は浮き雲にまかせ
我ありと思う心を捨てよただ
うき雲の風にまかせて
(一休)
「我を捨てよ」と一休和尚はいう。
そう簡単にできることではない。年を重ねても難しい。
雲に身をまかせてあちらこちらとさまようことはあるが、
固執しているかのような日々だ。
特に雲が美しい日には、心が落ち着かなくなる。
雲の形や立ち上っている方角を観る。遠出が出来ない
日は、近くの風景と雲を組み合わせた絵をイメージし
出かける。
近くの公園の散策路脇にキク類(テンニングサ?)
やコスモスの花が咲いた花壇がある。
梅雨の晴れ間が続いた天気のいい日。
花壇の前で雲が流れてくるのを待った。風はやや
強い。雲が途絶えるとしばらくしてからまた立ち寄る。
蝶がやってきた。ひらひらと動き回り、花に落ち着かな
い。撮るのがやっかいなシロチョウだが、花とのツゥー・
ショットで撮りたい。雲も良し。
花を離れた瞬間、蝶は風に流され遠ざかった。
ピントは合ったようだ。蝶の姿もなんとか分る。
間に合った。(上の写真)
世間で生きている身には、風に流されることはあって
も我執を捨てることは難しい。
「雨が降ろうと風が吹こうと、わたしは迷いの世間を楽し
むばかりだ」というのが一休和尚の悟りだったと言われ
るとほっとする。
我ありと思う心を捨てよただ
うき雲の風にまかせて
(一休)
一休は次の歌も詠んでいる
そのままに生まれながらの心こそ
願わずとても仏なるべし
生まれながらの心の取り戻しも、なかなか世間の中
で生きる身には・・・と思う向きへの歌もある。
聞くことと見る事にだに迷わずば
何か菩薩の障りなるべき
雲の形が変わった。立ち去りがたくなる。
雲は飽きることがない。海の波と同じだ。
寄せる波がなければ青い海も退屈にちがいない。
・・・これも我執なのだろう・・・・。
蝶が去るとミツバチがやってきた。いくつかの花
を訪れてきたようだ。足に花粉がついている。
ミツバチが花と挨拶をしている。
自分で動けない花は、受粉の相手探しは蝶や
ミツバチに頼らなければならない。
ミツバチの足についた粉の相手の花のことを
花は訊ねているのかもしれない。花にも運ん
で来てもらっては困る花粉の相手もいる。
そのための工夫も植物には備わっているら
しいが、顔見知りの花や蝶なら安心だろう。
この花たちは1年草。命は短い。開花期は
さらに短い。受粉の相手選びは大事だ。
事件があったようだ。
花や樹木にとって、公園は人間たちの世界の
ものであることに変わりない。犯罪も起こる。
一切の衆生と仏へだてなし
隔つものは迷い一念
(一休)
極楽も地獄も我にあるなれば
悪念起こるこころ制せよ
誰もみな生まるるも知らず住み家なし
帰らばもとの土になるべし
(一休)
袈裟ごろもありがたそうに見ゆれども
これも俗家の他りき本願
一休宗純。1394年~1481年。室町時代末期の僧。
一休のとんち話で有名。奇行でも知られる。
Posted by 流れる雲 at 12:00│Comments(0)
│詩・歌・俳句