2017年06月03日
ヴェルレーヌ〈巷に雨の降るごとく・・・〉
糸満ハレーのハレー鉦は鳴った。梅雨はまだ続くのだろうか。
天気予報では来週は良い天気になりそうだ。
梅雨の降りしきる雨を眺めて思い浮かぶのは、ヴェルレーヌの
詩集『無言の恋歌』中のあの「巷に雨の降るごとく・・・」と始まる
雨の詩。

〈巷に雨の降るごとく〉
雨はしとしと市(まち)にふる。
アルチュール・ランボー
巷に雨の降るごとく
わが心にも涙降る。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?
やるせなき心のために
おお雨の歌よ!
やさしき雨の響きは
地上にも屋上にも!
消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨は涙す。
何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?
この喪(も)そのゆえの知られず。
ゆえしれぬかなしみぞ
げにこよなくも堪えがたし。
恋もなく恨みのなきに
わが心かくもかなし。
堀口大學訳(新潮文庫、改訂版)
雨音に静かに聴き入る心に自然と浮かび上がってくる
流麗な堀口大學の日本語訳。学生時代に覚えた冒頭の
一節は自然と口をついて出てくる。あの頃は憂鬱な心を
ひっさげて首里の路地を歩いた。

1873年7月、ベルギーの首都ブリュッセルの街の路上。
ヴェルレーヌは、ランボー(あの天才詩人)に拳銃2発を
発射。手首を負傷させ逮捕される。
ランボーは入院。ヴェヌレーヌは2年間の禁固刑。
ブリュッセルのモンス監獄の独房で服役する。
この獄中生活で整理編集した詩を,1874年3月友人の
尽力で出版したのが第四の詩集『無言の恋歌』。
冒頭の詩もこの詩集に掲載されている。

ヴェヌレーヌとランボー レガメイのデッサン
(橋本一郎訳『ヴェヌレーヌ詩集』角川書店より。下も同じ)

ロンドンの頃のヴェルレーヌ(28歳) レガメイ筆
堀口大學訳の『ヴェルレーヌ詩集』(新潮文庫)をみると、
詩集『無言の恋歌』中の「忘れられた小曲」の章には「その一」
から「その九」まで九つの詩が収容されている。
「その三」が〈巷に雨の降るごとく・・〉で始まる詩である。
題はついていない。
詩集を構成する詩は、全て、妻子を見捨てて1872年(28歳)
から1873年にかけて、後年ヴェヌレーヌが「わが悪霊」と呼
んだ10歳年下のランボーとブリュッセルやロンドンで同棲・
周遊していた頃の作。
詩集の題は、ドイツの作曲家メンデルスゾーンのピアノ曲
「無言歌」(CDでは「無言歌集」の名称)に由来するという。

1874年4月、妻マチルドから出されていた離婚の訴え
が裁判所で認められる。
獄中で、ヴェヌレーヌは悔い改め回心。宗教詩『知恵』
を書き始めている。この詩集は1881年(37歳)に出版。
出獄は1875年1月、18か月の服役で出獄。
出獄後、まもなく妻に和解を求めているが拒否される。
また、シュットガルトに居たランボーを訪れ信仰を勧め
嘲笑される。ネッカー河畔ではランボーと喧嘩格闘。
気絶させられ放置されている。
同年12月、最後の手紙を書きランボーと別離している。

他の訳もいくつか開いてみる。
橋本一郎訳。
ちまたに雨がふるように
ちまたにしずかに雨がふる
アルチュール・ランボー
ちまたに雨がふるように
ぼくの心になみだふる
なんだろう このものうさは
しとしとと心のうちにしのび入る
おお 雨の音 地上にも
たちならぶ屋根の上にも
この倦怠(けんたい)の心には
雨の歌 おお しずかなひびき
いわれなく なみだふり
いわれなく しめつける ぼくの心よ
なんと言う? 裏切りはないと言うのだね
いわれなく 喪にしずむ ぼくの心よ
いちばんわるい苦しみは
いわれもしれぬ身のいたみ
恋いもなく 憎しみもないというのに
ぼくの心は こんなにも苦しみにみちている
(『世界の詩集8 ヴェルレーヌ詩集』角川書店)

鈴木信太郎の訳。
〈都に雨の降るごとく〉
都には粛やかに雨が降る
アンチュゥル・ランボォ
都に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる。
心の底ににじみいる
この侘しさは何ならむ。
大地に屋根に降りしきる
雨のひびきのしめやかさ。
うらさびわたる心には
おお雨の音 雨の歌
悲しみうれうるこの心
いわれもなくて涙ふる
うらみの思ひあらばこそ
ゆゑだもあらぬこになげき
戀も憎(にく)みもあらずして
いかなるゆゑにわが心
かくも惱むか知らぬこそ
惱みのうちのなやみなれ
『ヴェルレーヌ詩集』(岩波文庫)

岩波文庫『フランス名詩選』にはヴェルレーヌの詩が
五つ掲載されている。フランス語の原詩と日本語訳
対象となっているが、フランス語は分らないので省略。
渋沢孝輔の訳。
〔街に雨が降るように〕
街に静かに雨が降る
アルチュール・ランボー
街に雨がふるように
わたしの心には涙が降る。
心のうちにしのび入る
このわびしさは何だろう。
地にも屋根の上にも軒並に
降りしきる雨の静かな音よ。
やるせない心にとっての
おお なんという雨の歌!
いわれもなしに涙降る
くじけふさいだこの心
なに、裏切りの一つもないと?・・・・
ああ この哀しみにはいわれがない。
なぜかと理由も知れぬとは
悩みのうちでも最悪のもの、
愛も憎しみもないままに
私の心は痛みに痛む!
『フランス名詩選』(岩波文庫)

最後に、金子光晴訳。
図書館では探せなかったのでネットから引用。
〈街に雨が降るように〉
ーー しとしとと街にふる雨
アルチュール・ランボォ
しとしとと街にふる雨は、
涙となって僕の心をつたう。
このにじみ入るけだるさは
いったいどうしたことなんだ?
舗道にそそぎ、屋根をうつ
おお、やさしい雨よ!
うらぶれたおもいできく
ああ、雨の歌のふしよ!
ゆきどころのない僕の心は
理由もしらずに涙ぐむ。
楯ついたりいたしません。
それだのになぜこんな応報が・・・。
なぜということがわからないので
一しお、たえがたいこの苦しみ。
愛も、憎しみも棄てているのに
つらさばかりでいっぱいなこの胸。
野村喜和夫訳編『ヴェルレーヌ詩集』
(海外詩文庫6、思潮社)所収とある。


ヴェルレーヌのこの雨の詩。詩の中で急に調子が
変わる一節がある。
消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨は涙す。
何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?
この喪(も)そのゆえの知られず。
下線の部分。どのように理解すればよいだろう?
この節の訳をいくつか並べて見る。
「何事ぞ!裏切りもなきにあらずや」
「なんと言う? 裏切りはないと言うのだね」
「うらみの思ひあらばこそ」
「なに、裏切りの一つもないと?・・・」
「楯ついたりいたしません」
考えられるのはランボーとの関係。それとも妻や子への
思いが心の深層にあるのか・・・。
この部分にくるとヴェルレーヌの生活に引きずり込まれ
てしまう。
詩王とも称されたヴェルレーヌ。その生涯はすさまじい。
詩への感傷は吹き飛んでしまう。


雨の降る中、裏通りを軒下伝いに歩いていた黒猫。
詩王とも称されたヴェルレーヌ、私生活では奈落の底も
さまよう。
ヴェルレーヌの雨の詩に添える写真を撮るため、雨の日に
いくつかの場所に行ってみた。瓦屋根やコンクリート建てに
日本語の看板、そして現在の自動車。視覚的に違和感が
ある。
英語の看板の並ぶ旧コザの街を撮ってみたがどうも気に
入らない。那覇の街は港や川辺あたりを思い描き、まわっ
てみたがいい風景はなない。
ヴェルレーヌにまとわりつく陰鬱なイメージの写真は避けた
かった。
北谷町の雨のアメリカンヴェイレッジ。建物が新しく色が明る
すぎ、裏侘しい雰囲気はないが、西欧風な光景がいい絵に
なった。数回通う。傘を差した人物が通るのを待って、路上や
雨をよけ建物の陰から撮った。
回心したヴェルレーヌの心にあっただろう(と勝手に思う)聖
マリアの像も撮りたかった。
ヴェルレーヌはいつまでも母親には甘えていた。
開南と大里の協会の壁の聖マリア像を雨に濡れる草花を
前景にして撮った。

傘をさした人影が通るのを待つがなかなか来ない。
沖縄の人は雨でも傘をもたない人が多いから・・と
開店の準備をしている若い女性店員が言う。

この写真を撮るとき、ショパンのピアノ曲「雨だれ」(前奏曲
第15番)のことが頭に浮かんだ。マジョルカ島の修道院で
屋根を打つ雨音を聞いて作曲したという。ヴェルレーヌが
生まれる5年前のこと。5分余の短い曲。
雨の名のつくクラシックには、ブラームスのヴァイオリン曲に
「雨の歌」(ヴァイオリン・ソナタ第1番)もある。これは27分
ほどの曲。
ヴェルレーヌの雨の詩のバックグランド・ミュージックには
どの曲が合うだろうか?
フランクのヴァイオリンソナタイ長調(28分前後の曲)が最も
いいかもしれない。昨日、NHKFMで流れていた。
冒頭から一度聞いたら忘れられない瞑想的な旋律が奏
でられる。
サティーのピアノ曲もしとしと降る雨に似合う。
CDをエンドレスにして静かに思いにふけながら聞き流す。
「ジムノペディー」などどうだろうか。


上田敏には、ヴェヌレーヌの「落葉(らくえふ)」の有名な訳がある。
雨の詩の訳はないだろうかと『上田敏全訳詩集』(岩波文庫)
で調べたが載っていなかった。


詩人の手元を離れ一般の読者に読まれる詩は、
作者からは独立し命を持つという。
そして、読む者の心や人生に引き寄せられて
受け入れられる。
絵や歌も同じ。写真も。歌う人、読む人、見る人それぞれ
の気持ちや心境で受け入れその詩を絵を歌を好きになる。
それでいいのだろう。こう考えると添える写真の選択は楽
になる。

これは沖縄市中央パークアベニューで撮った。
バラの花は、ランボー出現後のヴェルレーヌとは縁が
無くなる。ふさわしくないなあと思ったが、雨に打たれ
しずくをながすバラの花に心が引かれた。
〔巷に雨が降るごとく〕が収容されている同じ詩集
『無言の恋歌』からもう一つ。
〈たった一人の女のために〉
たった一人の女のために
わたしの心は痛かった
今ではどうにかあきらめたが
そのくせわたしは泣いている
こころも気持ちも彼女から
ようやく離れはしたものの
そのくせわたしは泣いている
どうにか切れはしたものの
泣き虫のわたしのこころが
わたしの気持ちに訴える
「夢ではないのか?泣きながら
腹立ちまぎれにした別れ?」
気持ちがこころに言いきかせる 「自分も実はしらなんだ
離れているとよりきつく
骨身にしみてささり込む
こんな不思議な わな なんて!」
(堀口大学訳『ヴェルレーヌ詩集』)

ブリュッセルの獄中で書き始めた詩集『知恵』(『叡智』
と訳されることもある)の中からも一つ。
獄窓から空を見ているヴェルレーヌを想像してみる。
〈屋根の向こうに〉
屋根の向こうに
空は青いよ、空は静かよ!
屋根の向こうに
木の葉が揺れるよ。
見上げる空に鐘が鳴り出す
静かに澄んで。
見上げる木の間に小鳥が歌う
胸の嘆きを。
神よ、神よ、あれが「人生」でございましょう
静かに単純にあそこにあるあれが。
あの平和なもの音は
市(まち)の方から来ますもの。
ーーどうしたというのか、そんな所で
絶え間なく泣き続けるお前は、
一体どうなったのか
お前の青春は?
『知恵』巻の三 6」
堀口大学訳『ヴェルレーヌ詩集』から
この詩は、永井荷風の訳がよく知られているようだ。
永井荷風の訳では「偶成(ぐうせい)」という題がついている。
「偶成」とは、「たまたま出来た」「偶然に出来た」作品という
意味らしい。
偶 成 ポオル・ヴヱルレーヌ
空は屋根のかなたに
かくも静(しずか)に青し。
樹(き)は屋根のかなたに
青き葉をゆする。
打仰ぐ空高く御寺(みてら)の鐘は
やはらかに鳴る。
打仰ぐ樹の上に鳥は
かなしく歌う。
あゝ神よ。質朴なる人生は
かしこなりけり。
かの平和なる物のひゞきは
街より来(きた)る。
君、過ぎし日に何をかなせし
君今こゝに唯(た)だ嘆く。
語れや、君、そもわかき折り
なにをかなせし。
永井荷風訳『珊瑚集』(岩波文庫)
最後の節。
「君、過ぎし日に何をかなせし/君今こゝに唯だ嘆く。/
語れや、君、そもわかき折り/なにをかなせし。」の訳
が名フレーズで愛唱される。


晩年のヴェルレーヌ フェリックス・ヴァロトン筆
(橋本一郎訳『ヴェヌレーヌ詩集』角川書店より引用)
公園で落葉をみていたら、晩年のヴェルレーヌの憂い顔の
デッサンを思い出した。
最後に、ヴェルレーヌの「落葉」を上田敏訳で。
この訳は全ての節が五文字。よどみなく流れるので
全文暗記しやすい。素晴らしい訳だと思う。
上田敏が「巷に雨の・・・」の詩を訳したのがあったら
とつくづく思う。
落 葉 (らくえふ)
秋 の 日 の
ヸ オ ロ ン の
た め い き の
身 に し み て
ひ た ぶ る に
う ら 悲(がな) し
鐘 の お と に
胸 ふ た ぎ
色 か へ て
涙 ぐ む
過 ぎ し 日 の
お も ひ で や。
げ に わ れ は
う ら ぶ れ て
こ ゝ か し こ
さ だ め な く
と び 散 ら ふ
落 葉 (おちば) か な
ポール・マリー・ヴェルレーヌ。
フランスのメッツ市で1844年3月30日出生。
1896年(明治29年)1月8日、パリ、デカルト街の売春婦
と同棲していたアパートで死去。51歳。
ヴェルレーヌ。彼の人生は、うらぶれた落葉のよう
にさだめなくとび散らっていたことは間違いない。


天気予報では来週は良い天気になりそうだ。
梅雨の降りしきる雨を眺めて思い浮かぶのは、ヴェルレーヌの
詩集『無言の恋歌』中のあの「巷に雨の降るごとく・・・」と始まる
雨の詩。
〈巷に雨の降るごとく〉
雨はしとしと市(まち)にふる。
アルチュール・ランボー
巷に雨の降るごとく
わが心にも涙降る。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?
やるせなき心のために
おお雨の歌よ!
やさしき雨の響きは
地上にも屋上にも!
消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨は涙す。
何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?
この喪(も)そのゆえの知られず。
ゆえしれぬかなしみぞ
げにこよなくも堪えがたし。
恋もなく恨みのなきに
わが心かくもかなし。
堀口大學訳(新潮文庫、改訂版)
雨音に静かに聴き入る心に自然と浮かび上がってくる
流麗な堀口大學の日本語訳。学生時代に覚えた冒頭の
一節は自然と口をついて出てくる。あの頃は憂鬱な心を
ひっさげて首里の路地を歩いた。
1873年7月、ベルギーの首都ブリュッセルの街の路上。
ヴェルレーヌは、ランボー(あの天才詩人)に拳銃2発を
発射。手首を負傷させ逮捕される。
ランボーは入院。ヴェヌレーヌは2年間の禁固刑。
ブリュッセルのモンス監獄の独房で服役する。
この獄中生活で整理編集した詩を,1874年3月友人の
尽力で出版したのが第四の詩集『無言の恋歌』。
冒頭の詩もこの詩集に掲載されている。

ヴェヌレーヌとランボー レガメイのデッサン
(橋本一郎訳『ヴェヌレーヌ詩集』角川書店より。下も同じ)

ロンドンの頃のヴェルレーヌ(28歳) レガメイ筆
堀口大學訳の『ヴェルレーヌ詩集』(新潮文庫)をみると、
詩集『無言の恋歌』中の「忘れられた小曲」の章には「その一」
から「その九」まで九つの詩が収容されている。
「その三」が〈巷に雨の降るごとく・・〉で始まる詩である。
題はついていない。
詩集を構成する詩は、全て、妻子を見捨てて1872年(28歳)
から1873年にかけて、後年ヴェヌレーヌが「わが悪霊」と呼
んだ10歳年下のランボーとブリュッセルやロンドンで同棲・
周遊していた頃の作。
詩集の題は、ドイツの作曲家メンデルスゾーンのピアノ曲
「無言歌」(CDでは「無言歌集」の名称)に由来するという。
1874年4月、妻マチルドから出されていた離婚の訴え
が裁判所で認められる。
獄中で、ヴェヌレーヌは悔い改め回心。宗教詩『知恵』
を書き始めている。この詩集は1881年(37歳)に出版。
出獄は1875年1月、18か月の服役で出獄。
出獄後、まもなく妻に和解を求めているが拒否される。
また、シュットガルトに居たランボーを訪れ信仰を勧め
嘲笑される。ネッカー河畔ではランボーと喧嘩格闘。
気絶させられ放置されている。
同年12月、最後の手紙を書きランボーと別離している。
他の訳もいくつか開いてみる。
橋本一郎訳。
ちまたに雨がふるように
ちまたにしずかに雨がふる
アルチュール・ランボー
ちまたに雨がふるように
ぼくの心になみだふる
なんだろう このものうさは
しとしとと心のうちにしのび入る
おお 雨の音 地上にも
たちならぶ屋根の上にも
この倦怠(けんたい)の心には
雨の歌 おお しずかなひびき
いわれなく なみだふり
いわれなく しめつける ぼくの心よ
なんと言う? 裏切りはないと言うのだね
いわれなく 喪にしずむ ぼくの心よ
いちばんわるい苦しみは
いわれもしれぬ身のいたみ
恋いもなく 憎しみもないというのに
ぼくの心は こんなにも苦しみにみちている
(『世界の詩集8 ヴェルレーヌ詩集』角川書店)
鈴木信太郎の訳。
〈都に雨の降るごとく〉
都には粛やかに雨が降る
アンチュゥル・ランボォ
都に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる。
心の底ににじみいる
この侘しさは何ならむ。
大地に屋根に降りしきる
雨のひびきのしめやかさ。
うらさびわたる心には
おお雨の音 雨の歌
悲しみうれうるこの心
いわれもなくて涙ふる
うらみの思ひあらばこそ
ゆゑだもあらぬこになげき
戀も憎(にく)みもあらずして
いかなるゆゑにわが心
かくも惱むか知らぬこそ
惱みのうちのなやみなれ
『ヴェルレーヌ詩集』(岩波文庫)
岩波文庫『フランス名詩選』にはヴェルレーヌの詩が
五つ掲載されている。フランス語の原詩と日本語訳
対象となっているが、フランス語は分らないので省略。
渋沢孝輔の訳。
〔街に雨が降るように〕
街に静かに雨が降る
アルチュール・ランボー
街に雨がふるように
わたしの心には涙が降る。
心のうちにしのび入る
このわびしさは何だろう。
地にも屋根の上にも軒並に
降りしきる雨の静かな音よ。
やるせない心にとっての
おお なんという雨の歌!
いわれもなしに涙降る
くじけふさいだこの心
なに、裏切りの一つもないと?・・・・
ああ この哀しみにはいわれがない。
なぜかと理由も知れぬとは
悩みのうちでも最悪のもの、
愛も憎しみもないままに
私の心は痛みに痛む!
『フランス名詩選』(岩波文庫)
最後に、金子光晴訳。
図書館では探せなかったのでネットから引用。
〈街に雨が降るように〉
ーー しとしとと街にふる雨
アルチュール・ランボォ
しとしとと街にふる雨は、
涙となって僕の心をつたう。
このにじみ入るけだるさは
いったいどうしたことなんだ?
舗道にそそぎ、屋根をうつ
おお、やさしい雨よ!
うらぶれたおもいできく
ああ、雨の歌のふしよ!
ゆきどころのない僕の心は
理由もしらずに涙ぐむ。
楯ついたりいたしません。
それだのになぜこんな応報が・・・。
なぜということがわからないので
一しお、たえがたいこの苦しみ。
愛も、憎しみも棄てているのに
つらさばかりでいっぱいなこの胸。
野村喜和夫訳編『ヴェルレーヌ詩集』
(海外詩文庫6、思潮社)所収とある。
ヴェルレーヌのこの雨の詩。詩の中で急に調子が
変わる一節がある。
消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨は涙す。
何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?
この喪(も)そのゆえの知られず。
下線の部分。どのように理解すればよいだろう?
この節の訳をいくつか並べて見る。
「何事ぞ!裏切りもなきにあらずや」
「なんと言う? 裏切りはないと言うのだね」
「うらみの思ひあらばこそ」
「なに、裏切りの一つもないと?・・・」
「楯ついたりいたしません」
考えられるのはランボーとの関係。それとも妻や子への
思いが心の深層にあるのか・・・。
この部分にくるとヴェルレーヌの生活に引きずり込まれ
てしまう。
詩王とも称されたヴェルレーヌ。その生涯はすさまじい。
詩への感傷は吹き飛んでしまう。
雨の降る中、裏通りを軒下伝いに歩いていた黒猫。
詩王とも称されたヴェルレーヌ、私生活では奈落の底も
さまよう。
ヴェルレーヌの雨の詩に添える写真を撮るため、雨の日に
いくつかの場所に行ってみた。瓦屋根やコンクリート建てに
日本語の看板、そして現在の自動車。視覚的に違和感が
ある。
英語の看板の並ぶ旧コザの街を撮ってみたがどうも気に
入らない。那覇の街は港や川辺あたりを思い描き、まわっ
てみたがいい風景はなない。
ヴェルレーヌにまとわりつく陰鬱なイメージの写真は避けた
かった。
北谷町の雨のアメリカンヴェイレッジ。建物が新しく色が明る
すぎ、裏侘しい雰囲気はないが、西欧風な光景がいい絵に
なった。数回通う。傘を差した人物が通るのを待って、路上や
雨をよけ建物の陰から撮った。
回心したヴェルレーヌの心にあっただろう(と勝手に思う)聖
マリアの像も撮りたかった。
ヴェルレーヌはいつまでも母親には甘えていた。
開南と大里の協会の壁の聖マリア像を雨に濡れる草花を
前景にして撮った。
傘をさした人影が通るのを待つがなかなか来ない。
沖縄の人は雨でも傘をもたない人が多いから・・と
開店の準備をしている若い女性店員が言う。
この写真を撮るとき、ショパンのピアノ曲「雨だれ」(前奏曲
第15番)のことが頭に浮かんだ。マジョルカ島の修道院で
屋根を打つ雨音を聞いて作曲したという。ヴェルレーヌが
生まれる5年前のこと。5分余の短い曲。
雨の名のつくクラシックには、ブラームスのヴァイオリン曲に
「雨の歌」(ヴァイオリン・ソナタ第1番)もある。これは27分
ほどの曲。
ヴェルレーヌの雨の詩のバックグランド・ミュージックには
どの曲が合うだろうか?
フランクのヴァイオリンソナタイ長調(28分前後の曲)が最も
いいかもしれない。昨日、NHKFMで流れていた。
冒頭から一度聞いたら忘れられない瞑想的な旋律が奏
でられる。
サティーのピアノ曲もしとしと降る雨に似合う。
CDをエンドレスにして静かに思いにふけながら聞き流す。
「ジムノペディー」などどうだろうか。
上田敏には、ヴェヌレーヌの「落葉(らくえふ)」の有名な訳がある。
雨の詩の訳はないだろうかと『上田敏全訳詩集』(岩波文庫)
で調べたが載っていなかった。
詩人の手元を離れ一般の読者に読まれる詩は、
作者からは独立し命を持つという。
そして、読む者の心や人生に引き寄せられて
受け入れられる。
絵や歌も同じ。写真も。歌う人、読む人、見る人それぞれ
の気持ちや心境で受け入れその詩を絵を歌を好きになる。
それでいいのだろう。こう考えると添える写真の選択は楽
になる。
これは沖縄市中央パークアベニューで撮った。
バラの花は、ランボー出現後のヴェルレーヌとは縁が
無くなる。ふさわしくないなあと思ったが、雨に打たれ
しずくをながすバラの花に心が引かれた。
〔巷に雨が降るごとく〕が収容されている同じ詩集
『無言の恋歌』からもう一つ。
〈たった一人の女のために〉
たった一人の女のために
わたしの心は痛かった
今ではどうにかあきらめたが
そのくせわたしは泣いている
こころも気持ちも彼女から
ようやく離れはしたものの
そのくせわたしは泣いている
どうにか切れはしたものの
泣き虫のわたしのこころが
わたしの気持ちに訴える
「夢ではないのか?泣きながら
腹立ちまぎれにした別れ?」
気持ちがこころに言いきかせる 「自分も実はしらなんだ
離れているとよりきつく
骨身にしみてささり込む
こんな不思議な わな なんて!」
(堀口大学訳『ヴェルレーヌ詩集』)
ブリュッセルの獄中で書き始めた詩集『知恵』(『叡智』
と訳されることもある)の中からも一つ。
獄窓から空を見ているヴェルレーヌを想像してみる。
〈屋根の向こうに〉
屋根の向こうに
空は青いよ、空は静かよ!
屋根の向こうに
木の葉が揺れるよ。
見上げる空に鐘が鳴り出す
静かに澄んで。
見上げる木の間に小鳥が歌う
胸の嘆きを。
神よ、神よ、あれが「人生」でございましょう
静かに単純にあそこにあるあれが。
あの平和なもの音は
市(まち)の方から来ますもの。
ーーどうしたというのか、そんな所で
絶え間なく泣き続けるお前は、
一体どうなったのか
お前の青春は?
『知恵』巻の三 6」
堀口大学訳『ヴェルレーヌ詩集』から
この詩は、永井荷風の訳がよく知られているようだ。
永井荷風の訳では「偶成(ぐうせい)」という題がついている。
「偶成」とは、「たまたま出来た」「偶然に出来た」作品という
意味らしい。
偶 成 ポオル・ヴヱルレーヌ
空は屋根のかなたに
かくも静(しずか)に青し。
樹(き)は屋根のかなたに
青き葉をゆする。
打仰ぐ空高く御寺(みてら)の鐘は
やはらかに鳴る。
打仰ぐ樹の上に鳥は
かなしく歌う。
あゝ神よ。質朴なる人生は
かしこなりけり。
かの平和なる物のひゞきは
街より来(きた)る。
君、過ぎし日に何をかなせし
君今こゝに唯(た)だ嘆く。
語れや、君、そもわかき折り
なにをかなせし。
永井荷風訳『珊瑚集』(岩波文庫)
最後の節。
「君、過ぎし日に何をかなせし/君今こゝに唯だ嘆く。/
語れや、君、そもわかき折り/なにをかなせし。」の訳
が名フレーズで愛唱される。

晩年のヴェルレーヌ フェリックス・ヴァロトン筆
(橋本一郎訳『ヴェヌレーヌ詩集』角川書店より引用)
公園で落葉をみていたら、晩年のヴェルレーヌの憂い顔の
デッサンを思い出した。
最後に、ヴェルレーヌの「落葉」を上田敏訳で。
この訳は全ての節が五文字。よどみなく流れるので
全文暗記しやすい。素晴らしい訳だと思う。
上田敏が「巷に雨の・・・」の詩を訳したのがあったら
とつくづく思う。
落 葉 (らくえふ)
秋 の 日 の
ヸ オ ロ ン の
た め い き の
身 に し み て
ひ た ぶ る に
う ら 悲(がな) し
鐘 の お と に
胸 ふ た ぎ
色 か へ て
涙 ぐ む
過 ぎ し 日 の
お も ひ で や。
げ に わ れ は
う ら ぶ れ て
こ ゝ か し こ
さ だ め な く
と び 散 ら ふ
落 葉 (おちば) か な
ポール・マリー・ヴェルレーヌ。
フランスのメッツ市で1844年3月30日出生。
1896年(明治29年)1月8日、パリ、デカルト街の売春婦
と同棲していたアパートで死去。51歳。
ヴェルレーヌ。彼の人生は、うらぶれた落葉のよう
にさだめなくとび散らっていたことは間違いない。
Posted by 流れる雲 at 23:00│Comments(0)
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