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2019年07月19日

沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)

沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)




   沖縄忌なお地に迷う霊のあり

                       (志多伯得寿)




 日本の国土で唯一地上戦が行われた島。
 一般住民が巻き込まれた未曾有の地上戦で血塗
 られた島。人類の戦争の歴史で類例のない一般住
 民の自決という惨劇が起きた島・・・・沖縄。

 
 太平洋戦争の終結から70数年たった現在も、遺骨
 が不発弾が掘り出される島・・・・沖縄。

 

 沖縄戦の戦没者数。
 米軍1万2520名、本土出身軍人6万5,908名。
 沖縄県出身12万2、228名。総計20万656名。


 沖縄県出身12万2,228名のうち、
 軍人・軍属2万8,228名、戦闘参加者(住民)
 5万7,044名。一般住民(推定)3万6,956名。
 実に県民4人に1人が犠牲となった。
(戦没者数は『ひめゆり平和記念資料館』より)


 6月23日は沖縄慰霊の日である。
 沖縄全戦没者追悼式が糸満市摩文仁の平和記
 念公園で行われる。



 句は『復刻版 南島俳句歳時記』(瀬底月城著)より。
 以下、用いた句は同上書か『沖縄の歳時記』(比嘉
 朝進著)や個人発行の句集などから。





沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)






  一日の水断ちにけり沖縄忌

                    (大浜のぶ)
    
 

 大浜のぶさんは自句に次の文を添えている。 
 
 「毎年巡りくる沖縄忌。病身の自分は慰霊祭に行く
 こともできない。せめて一日の水断ちをして、戦死
 者のみ霊を慰めたいと思うのです。」



 上の写真は魂魄之塔。




沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)
 

 魂魄之塔を必ず訪れるという遺族は多い。

 

 同様に国立墓苑でも多くの遺族が供花する。
 

 墓苑の祭壇背後の納骨堂(庫)には、火葬場で
 焼いた遺骨を納めた箱が数多く積まれてある。


 昨年、納骨庫の入口を探している遺族がいた。
 親から供花・供物は、祭壇ではなくて入口の前
 で行うように言われたという。


 国立墓苑で、ここではないと祖母から言われ
 戸惑っている遺族にも出合った。
 墓苑と魂魄の塔を間違えて来ていた。しかし
 魂魄之塔の名も場所も若い孫たちは知らなか
 った。
 


 なお、沖縄戦没者追悼式に出席する前に、総理
 大臣はSPにぐるっと囲まれた国立墓苑で供花し
 合掌する。今年も祭壇には総理大臣名の花があ
 った。




沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)


 

   涙ついに落す語部沖縄忌

                     (具志堅政正)
  



 写真は糸満市荒崎海岸のひめゆり学徒散華
 の跡地の碑。
 碑のある岩場の海岸へ向かう雑木林の中の
 小径は雨でむかるみとても歩きづらい状態で
 あったが、花が添えられていた。

  
 「最後の場面はほんとに惨(むご)いものでし
 た。一瞬の出来事で4名が即死。10名が自決
 です。地獄そのものでした。」
 と語る宮城喜久子(旧性・兼城)さんの証言を
 末尾に追加した。




  沖縄忌おさげの姉も征きしまま

                       (新垣恵子)




沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)




   慰霊の日平和祈念像手解かず
    

                            (大山春明)  
    


 平和祈念像。山田真山画伯(1885~1977)
 が晩年の全生涯を捧げ72歳から満18年の歳月
 をかけて制作した合掌座像。

 国家、人種、思想、宗教を超越した世界の恒久平
 和を祈念し合掌している。





沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)


 摩文仁の平和祈念堂に安置されている。


 高さ(座高)12メートル。幅(両膝の葉幅)8メート
 ルの立体堆錦(ついきん)の像。
 鎌倉の大仏(座高11.3メートル)より大きい。


 

沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)

 
 像の周りを回りながら角度を変えて撮る。像に
 向かい右横のアングルから見ると、慈愛深い
 顔立ちをしていた。




沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)




  果て見えぬ戦後は令和へ沖縄忌
  

   この島の戦後終わらず慰霊の日




 「島に風の絶えることはない」は芥川賞作家大城
 立裕の言葉。昭和~平成と絶えることなく吹き続
 け、令和もさらに強さを増して吹く。

 

 平和の礎前で、白髪に長い白いあご髭の老人に
 出会った。「ようやく親の名前を礎に刻銘できた。
 それを位牌に見せに来た」と念願を果たした喜び
 の顔で、位牌の入った袋を掲げて見せた。
 


  位牌抱き礎と語る沖縄忌

   



沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)



    
   沖縄忌夫より老けりし子とともに

                        (大宜味とみ) 




   永遠に若き母なり沖縄忌

                         (芳澤史子) 
                      


 永遠に止った時間のなかの夫あるいは母の顔。
 過ぎた歳月が重たくのしかかる。
 




沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)

 


  
  沖縄忌まぶたの中をはしるもの

                        (前城 功)
                 


  沖縄忌が父母の命日糸瓜咲く

                        (安島涼人)
 



  沖縄忌わが名ばかりの戸籍なり

                        (許田耕一)




   誰が化身か黒蝶飛ぶ沖縄忌



     
 


沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)




 6月23日。沖縄守備軍司令官が自決し日本軍が
 壊滅した日。この日を沖縄県は条例で慰霊の日と
 定め公休日とした。

 司令官の自決は6月23日ではなく前日の6月22
 日だという方もいる。墓標に六月二十二日と刻され
 ている当時のモノクロ写真を図書館の戦後資料の
 本で確かに見たことがある。 
 



 逃げまどう南部の戦場。中部方面に海を越えて逃
 げようと東海岸に出た数名の敗残兵。しかし逃げ
 ることは不可能。ここで自決をしようと海岸で全員
 が肩越しに腕を組んで輪となって目をつぶり、

 一・二・三の掛声で手榴弾を爆発させる。


 一瞬、肩を組んでいた手が離れ手榴弾を爆発させ
 た沖縄出身の兵以外は一斉に逃げ去り爆発させ
 た本人1人重傷を負う。

 この重傷の沖縄兵は「畜生、畜生」と逃げた戦友た
 ちを恨み叫びながら6月23日の前日息を引き取っ
 たという。

 遺骨収集していた頃、遺骨の情報提供者から聞
 かされた話の一つである。

 



沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)





沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)






沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)



 
 朝鮮人の労役夫のことは語りつがれず闇に消え
 去ろうとしている。



 ある島に戦時中にあった実話。
 スパイの容疑を被せられた朝鮮人3名。穴を掘ら
 されその前に座らされた。斬首刑のためである。


 必死に無実を訴え「海ゆかば」を唄う3名の首を
 日本刀がはね、3つの首が落ちる。その途端首
 のない1人が、すくっと立ちあがり駈け逃げ倒れ
 たという。

 この話は自決の生き残りの方から聞いた。
 
  
 なお、朝鮮半島出身者の沖縄戦における戦没者 
 数を調査した資料はあるのだろうか。
 一体どれほどの命が失われたのだろう。

 

  
沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)
 


 慰霊の日。
 若い米国人の青年が小旗と花を供えた壁の前
 にしばらく無言で座っていた。  

 星条旗は米国の全ての壁の前にある。他の二
 つはここで初めて目にした。
 戦死した軍人の思い出を忘れないために遺族
 に与えられる旗だという。連れの日本人の女性
 が通訳してくれた。


 黒い旗には「あなを忘れない」と英文字が読める。  
 





沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)




  
  くわず芋ひそやかに咲いて慰霊の日

                          (安島涼人)


 
 句集『琉球切手』(昭57)に所収。
 クワズイモが咲くのは梅雨の前後。月桃と同じ
 く沖縄戦の頃。群生した大きな葉の陰に咲く。

 なお、先に掲げた「沖縄忌が父母の命日糸瓜
 咲く」も同句集から引用。
 安島氏には「慰霊の日断崖百合の白ともる」の
 句もある。




沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)



  岬うつ濤(なみ)や滔滔と沖縄忌

                      (後藤黙石)






沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)


 摩文仁海岸の荒波。




沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)




  波の背にわだつみの声慰霊の日

                         (湧川新一) 





沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)



     沖縄忌闇うつ波の声きかむ

                    (玉城一香) 


                    

 『玉城一香遺句集』所収。
 「またもどる戦の話夏いくたび」という句も詠んでいる。







沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)





   潮騒の慟哭となり沖縄忌

                         (上江洲満三郎)
 


 

 次のような句もある。 



   沖縄忌皿に唐いも二つ三つ
      
                    (山城青尚)


 二つ三つの芋を慰霊の日の一日の糧食とし、
 沖縄戦の苦しみを忘れないようにしていると思
 われる。


 「一日水断ちにけり沖縄忌」(大浜のぶ)の覚悟に
 通じるものがある。
 二つの句を詠むと「過越の祭り」のことが思い浮かぶ。 
   



沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)


 平和記念公園の池。

 


沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)


 同じ池の縁。
 雨上がりの綠に浮かぶ垂れた赤い花房が美しかった。 
 
 花の名はハナチョウジというようだ。メキシコ原産。
 年中咲くがこの時期の花が最もきれいだという。 




  
 〔補追〕
      
 地獄の果てーー荒崎海岸


 
 ひめゆり学徒の生存者宮城喜久子(旧・兼城)
 さんーー当時16歳の証言。

 以下『ひめゆり平和資料館』より。


 ーーーそれから後は喜屋武岬の海岸を潮が引い
 たら歩き、満ちたら蟹のように岸壁にへばりついて
 逃げていたんです。岸壁の下は凄い波しぶきでした。
 ・・・精も根もつき果てた私たちは、もう皆で自決しよ
 うと話し合っていました。


 特に3年生は「平良先生、今のうちに死にましょう」
 と苛立っていました。「早くやりましょう。先生」と追
 い詰めているんですね。
 先生は先生で、11人の運命を託されているという
 責任感と悲壮感で、とても苛々しているようでした。

 
 私は平良先生から手榴弾1つもらって持っていまし
 た。宮城貞子、宮城登美子、板良敷良子と私の4名
 は、「もう最後だから、歌を歌おうよ」と海に向かって、
 『ふるさと』を歌ったnです。皆かすれ声で後は声に
 もならなかったんです。


 すすり泣きに変わってしまいました。「お母さんに会
 いたい」と板良敷良子さんが泣きながら言いました。
 「もう一度、弾の落ちない青空の下で大手を振って
 歩きたいね」とも言いました。

 それを聞くと、皆声を出して泣きました。こんなに追
 い詰められて死ぬのは悲し過ぎると皆思っていた
 のです。だから一度に泣き崩れたのです。



 6月21日の朝、岩穴を見つけて一緒に隠れました
 が、狭くて比嘉初枝さんと私と平良先生がはみ出
 してしまい、それですぐ側の岩にもたれて座ってい
 ました。

 敵はぱったり攻撃を止めて、砲声は絶えていました。
 不気味な静けさに包まれた入江の海は無数の敵艦
 が巨体を浮かべ、岩陰には沢山の避難民、兵隊と
 私たちが恐怖に包まれながら息をひそめていました。



 皆が怖がっている放送がまた始まりました。投降呼
 び掛けのその気味悪い声だけが辺りに響き渡りまし
 た。「助けてあげるから手を上げて来い。出てこい」

 
 そしたら兵隊が1人、両手を上げて船に向かって行
 ったんですよ。・・・そしたら突然、パパーンと後ろの
 岩陰から同じ日本兵がその人を撃ったのです。
 兵隊は撃たれて倒れ、海に浮きました。


 そこはもう地の海でした。皆びっくりして声も出ませ
 ん。咳き1つしない不気味な沈黙が、いつ終わるか
 と思うくらい長く続きました。


 
 その時です。突然私の所に血だらけの兵隊が転
 がり込んできたのです。米兵に手榴弾を投げつけ
 たため、逆にやられてこちらに逃げ込んできたの
 です。


 「敵だ」と言う叫び声が起こると同時に、平良先生が
 反射的に9名いる穴に飛び込んでしまったんですよ。
 与那嶺松助先生のグループがそこにいました。


 ほとんど同時でした。次の瞬間、どこから現れたの
 か、米兵が私たちに自動小銃を乱射しました。目と
 鼻の先の至近距離からです。凄い轟音でした。
 あそこもパーン。こちらもパーンです。


 側の安富祖嘉子さんはウーンと唸って私に寄り掛
 かりました。仲本ミツ子さんと上地一子(かずこ)さ
 んの2人も即死。右側の曹長も即死して私の顔の
 上に倒れてきました。島袋とみ・比嘉園子・大兼久
 (おおがねく)良子さんの3人も大怪我でした。



 私と比嘉初枝さんが自決現場に駆け寄りましたら、
 一面血だらけで10人が倒れていたんです。
 
 平良先生は腸が全部出て、真ん中にうつ伏せにな
 っていました。3年生が一番酷い様子で判別出来
 ない位でした。比嘉三津子さんと瀬良垣えみさんは
 ちょっと離れて死んでいました。

 普天間千代子さんが、ウーン、ウーンと言って息を
 引き取りました。4年生は皆きれいな姿で残ってい
 ましたが、顔面のあっちこっちにポツンポツンと穴は
 あいていました。


 私は立ちすくんで、もう声も出ません。最後の場面
 はほんとに凄いものでした。一瞬の出来事で4名が
 即。10名が自決です。地獄そのものでした。


           
 以上は宮城喜久子さんの証言。



 宮城さんの証言に出てくる平良(松助)先生が逃げ
 込んだ穴の惨劇の生々しい様子は、同じ資料の大
 兼久良子さんの証言で語られている。

 大兼久さんの証言には、また学徒引率の先生どお
 しが自決のことで言い合う状況がある。


 ーー夕方、心配して話し合っている所に内田先生が
 みえて、与那嶺松助先生に「銃殺しなさい」と言って
 いるのを、私は側で聞いていました。

 「誰が引き金をひくのか」
 「それは先生がやるんですよ」
 「自分の子どもたちに銃を向けることは僕には出来
 ない」
 「僕のグループは銃殺が決まり、順番も決めてある」
 と言い合っています。


  
 
沖縄慰霊の日~フォト俳句(4)
    



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Posted by 流れる雲 at 21:00│Comments(0)フォト俳句
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