2019年08月14日
天仁屋バン岬の褶曲
名護市天仁屋(てにや)のバン岬。
地元ではバンザチとよぶ。
右手の断崖の中腹の奥に鳥の頭のような影と
なって見える岩。バン岬で最も美しい岩山。
ここには数回来た。もう一度あそこまで行きたい。
天仁屋の浜から1.5キロほどの距離。
羽を休めた巨大な岩の鳥。バン岬の象徴。
沖縄本島の海岸を歩きまわっていた頃があった。
天仁屋~バン岬~嘉陽の海岸線を歩いた数年前、
太ももまで海の中に入り10メートルほど、岬の先
端を渡るとこの岩山に出合った。
この下の岩場で休み、それなりにカメラも向けたが
絵として撮るにさほど美しいとは思わなかった。
その後、神谷厚昭(こうしょう)氏の著書『琉球列島も
のがたり』(ボーダーインク、2007)の表紙をかざる
写真でこの岩山の美しさを知った。
神谷厚昭さんは、表紙はバン岬の写真である。太
陽が順光になる午前中が写真を撮るにはいいと
教えてくれた。
しかし、まだ思う絵は撮れていない。
海底の滑りやすい足元と波に注意しながら岩壁
沿いに海中を歩くことを思うと気が重かった。
潮位がとても低くなる大潮の日であれば海岸を歩
いて行ける。そのような大潮は年に数回だと嘉陽
でカフェを営む男性が最近教えてくれた。
その年に数回の大潮の日が数日後にあった。
峰雲や大褶曲は空に切れ (一香)
『琉球列島ものがたり』所収の句を引用。
この読みやすく教科書のような素晴らしい本は
もう絶版のようだ。書名を変えて新書版が発行
されている。
名護市嘉陽層の褶曲を見に行こう。
この文句は、名護市教育委員会が発行した小冊子
『名護市嘉陽層の褶曲 ハンドブック』(平26、全38
ページ)の中ほどに記されていた。
天仁屋川の河口からバン岬にかけて見られる嘉陽層
の褶曲は国指定の天然記念物(平成24年指定)。
素晴らしいダイナミックな景観は一度は是非見てお
きたい。
ハンドブックには現場での見所のポイントのカラー
写真が載っている。
300円~500円するかと思った。「無料」だと親切
な係員は嬉しくなる言葉を返す。
もっと早くハンドブックのことを知っておれば良かっ
た。
名護市教委の文化財係(名護市博物館内の2階。
雨の日は2階に上がる外階段で濡れる。つまり傘
が必要)でもらえる。バン岬に行く前に是非手に入
れておいた方が良い素晴らしい冊子である。
文化財係 0980-53-3012
天仁屋集落から天仁屋の浜に下る坂道の途中か
ら望むバン岬のある天仁屋後原(クシバル)の山。
やや満潮どきの海岸。
坂道途中の曲がり角に海岸を一望できる場所
がある。
左端は天仁屋川から海への流れ。
向かいの海中の岩山(中央)はトゥバヤーとい名。
集落の信仰の対象。天仁屋集落の拝所は5カ所、
そのうちの1つである。
ニライカナイからの神が降り立つ場所として崇めら
れたのではないかという。
八チウクシ(初起し)やウニムーチー(鬼餅)の日の
集落行事では他の拝所とともに拝む場所だった。
集落にある4カ所を拝んだあと、トゥバヤーを拝み、
最後はアサギに帰る。
「イノーには、海の彼方から文化・幸福をもたらす
ニライの神様を祀る御獄(ウタキ)、あるいは休息・
滞在なさる岩島、そして死んだら自己の産まれた
原郷に帰るとの思想に都合のよい葬地の霊地な
どが存在している。」
「遙か遠い彼方に満ち足りた国、かつあらゆるも
のの根元の国が存在する。・・・その国はニライ
カナイと呼ばれる。」
「海の彼方のニライカナイから神が我々に幸福を
与えるべく白帆の船に乗って来訪する。神は天上
からではなく、水平線の海からくるのです。」
と仲松弥秀先生は『うるま島の古層』(梟社、1993)
で語っている。
また、このような思想・信仰は琉球弧の島々以外で
もあるとその例をあげている。
満潮の時は海岸沿いをバン岬に歩いていくことは
出来ない。潮の引くのを待つ。
潮が引いた浜。
潮が引くまでのしばらくの時間は辺りを散策し蝶を
撮ったりしながらつぶした。
天仁屋集落内を海岸に向かってまっすぐ進み、
S字になった急な坂を下ると浜に出る。
右端の流れは天仁屋川。
左端に、嘉陽層の褶曲が国の天然記念物(地質)
に2012年(平24)9月19日に指定された説明の
碑が設置されている。指定は最近のことなのだ。
浜には車が数台駐車できる。
初めてだと潮が満ちたら車は大丈夫か気になるが、
心配ないと地元の方はいう。
雨による天仁屋川の増水時の様子は見たことが
ないので分らない。駐車も出来なくなるのではないか。
浜に降りてきた坂道を振り返リ見た風景。
川の対岸には墓地がある。
普段の天仁屋川の流れ。
川幅は3メートルほど。川底は浅い。車によっては
流れに車を乗り入れ川向こうの浜に渡ることも可能。
この天仁屋川の流れを渡らなければバン岬には
いけない。
川の中に踏み石が幾つか並べて置かれているが、
それらの石はあまりに小さく足を踏み外さず渡れる
かどうか。グラッと揺れる石もある。
慎重に渡れば靴を濡らさず渡れないことはないが、
避けた方がよい。
川は左端の崖にぶつかり折れて海に流れ込む。
この付近がより浅く渡りやすいように思う。しかし、
適当な踏み石を見つけきれないと、やはり足を踏
み外し靴の中まで水を入れてしまう。
どの場所を選ぼうと、濡れるべきか濡れざるべきか
ハムレットのように悩む。
その点、長靴なら安心で適しているのだろう。
濡れてもよい服装に靴そして予備の替え靴と着替
えを持っていれば気も楽になる。
そのほうがいい「帰宅時も快適です」と名護市の
ハンドブックも教えている。
バン岬に向かって浜から進む。
約1.5キロの距離は大人の足で片道おおよそ40
分~50分。
途中、崖や岩塊が海川に突き出した数カ所あり、
前述したようにある程度潮が引いていないと途中
で海の中に入ることになる。
市教委のパンフレットは気象庁の潮位表の時間を
「天仁屋の場合、30~40分前倒しする」と細かく
親切なアドバイスをしている。
靴や服を濡らすことを気にしなければそんなに神
経質になることはないと思うが・・・・。
事前に潮の満ち引きの時間帯を調べておくことは
どうしても必要。
海岸の遠くに見える車は釣り人のもの。
あの辺り休日にはキャンプのテントを見ることもある。
岬の方に向かうゴムボート。岬を廻り嘉陽の方角
へ消えた。
去った8月1日~3日は大潮。
しかも潮位が数センチ以下に下がる大潮の日。た
またまだが幸運だった。ゴムボートはなくても歩い
てバン岬を越えて行ける。
人の気配は意外と感じる。
釣り人、サーワァー、干潟や浅瀬で遊ぶ親子づれ
など見かける。観光客の車ともときどきやってくる。
さびしい場所ではない。
奥に横たわる岬は天仁屋の東の天仁屋岬。
天仁屋の海は天仁屋岬(ティンナザチ)とバン岬
(バンザチ)に抱かれている。
天仁屋岬までも大潮に歩いて行ける。
天仁屋岬を越えてさらに海岸を北に向かうと美しい
数百メートルも続く砂浜がある。
バン岬への海岸を歩きながら遠く天仁屋岬を眺め
る天仁屋の海は美しい。
「毎月1回、15日の大潮には必ずムラの南~東の
海に出てヒシ(干瀬)まで渡った。引潮の時間の
関係で、夏の時期は昼に、冬は夜のイジャイ(松明
漁)である。魚を突き、タコを探し、貝をとった。
これらは老人や女子供の楽しみであった。」(名護
市史)と昔を知る老人は懐古する。
ミジュンの影を求めて海面をじっと眺め渡す。
ミジュンの群れの黒い影は浅瀬近くま遊泳してくる。
それを、腰を低くかがめゆっくりと進み狙いすまし
て網を投げる。
この時期ミジュンの群れが寄せてくるそうだ。
ミジュン(小鰯/こずん)はイワシの仲間の十数センチ
ほどの小さな魚。
沖縄民謡の谷茶前節(たんちゃめぶし)に唄われてい
るあのミジュン。
昔、天仁屋川の河口と隣の有津川河口は山原船の
寄港地。
船主の姓か屋号だろうか、松堂、川端(ともに平安座)、
伊礼小の山原船が帆をあげて出入りしていたという。
薪や木炭などの林産物と生活物資の交換が行なわ
れ、その積み出しで賑わっていた時代があったのだ。
今は船着き場の痕跡もなく、その光景を思い描くこと
は難しい。諸行無常。
すぐ上の写真の露出した地層に近寄り、低い
アングルから空と雲を入れダイナミックな構図
をつくった。
大小の礫石が多く歩きづらい。
砂岩優勢互層に見られる大規模な褶曲と逆断層。
名護市教委のハンドブックに添えられた写真と同じ
場所である上の写真。説明を読みあらためてじっく
り見る。右上の黒褐色の山肌部分をよく眺めると、
左側に倒れた大きな褶曲のカーブが描けてきた。
「天仁屋川河口からバン岬にかけては褶曲構造に
ともなって、南に向かって倒れ込むような形の逆断
層がいくつも観察できる。
褶曲は、砂岩層が多いところでは大きく褶曲し、頁
岩(泥岩)層が多いところでは細かく褶曲するといっ
た違いを示している。
「これらの地層は、全体的にバン岬に向かって倒れ
込んだ形の逆転した地層群で、南側(バン岬側)か
ら北側(天仁屋側)に向かって動いたプレートの運
動によってできた構造だと考えられている。
つまり、嘉陽層の褶曲・断層構造は、プレートの動
きに忠実な記録というわけ。
嘉陽層は、当時の海溝を埋め立てた堆積物で、琉
球列島に付加した地層の中では、もっとも新しい地
層ということになる」
ーーこの『琉球列島ものがたり』の記述を念頭に風
景を見て、地球的規模の地殻変動と時間をイメージ
すればいいのだろう。と思うが、浮ぶのは本の中の
いくつかの図。しかたがない。
海岸沿いにはバン岬先端まで崩落カ所が多い。
また、山反対側の嘉陽側では山頂近くから海岸まで
大きく崩れ落ちている場所もある。
嘉陽層は極めて崩落しやすい地層なのだろう。
斜面や崖の崩落があちらこちらで起きている。
ここらあたりまでは満潮でも来れる。
ときどき振り返る。写真を撮りはじめた頃からの癖
になっている。
歩いて来た場所がまるで新しい風景に見えること
がある。
バン岬はまだまだ先。
潮に濡れた岩場は滑りやすい。うっかりしてまだ乾
いてない岩の上に足を踏みだし滑りそうになった。
カメラを持っている場合は特に気をつける。
数分進むと1.5メートルほどの岩壁が行くてを遮る。
岩は低いので乗り越えられるが、角度があるので身
体が重たいと、多分にやや手間取る。
面倒臭がらずに、滑りやすくなった足場に気をつけ
ながら潮が引いている海側から廻りこんで横切る。
断崖を見上げる。白雲が流れていく。いい天気だ。
鼻先には磯の匂い。太陽もかなり高くなり動いている。
崩れ落ち波に洗われ丸くなった大小の石は、岬の
先端まで海岸を埋めている。
なかにはサンゴの丸くなった白い石も混じっている。
イノーが海を囲み、干潮時には沖に白波が立つ。
大規模な褶曲と逆断層。
上の写真の中央部分。
褶曲が急角度で折れ曲がり倒れ込んだ部分では地
層の逆転が見られる。
遠くから全体を一見すると、山水画を思わせる
風景。
この間を通って進む。
ここも潮が満ちると歩けなくなるのが分る。
雨が降り続いた後などは頭上要注意。
事前に地元で「当日の海の状況や崩落カ所につい
ての情報を確認する」ことと『ハンドブック』は注意を
している。
山腹にユウナの樹。目をこらしてよく見ると黄色い花
が無数に咲いていた。
ユウナは潮風の厳しい環境にも強い。そして黄色い明
るい花を咲かせる。ウチナーンチュの根性と開放的な
気風を持った樹木だ。
茜色の地層の色合いに惹かれ岩壁を強調して撮
った。
朝陽の当る時間だとこの崖は美しく輝き、いい作
品が撮れるかも知れない。絵が浮んでくる。
海岸の半分ほどは歩いて来ただろうか。
写真中央奥に見える岩塊が海にせり出した場所を
越えれば岬の先端が見えてくる。
途中の地層や褶曲、空の雲を追い海を眺めなが
ら。
上の写真の左(南)側。つまりバン岬の側。
ここら辺りから南側では地層の単層の厚さが薄く
なり、また泥岩の割合が増加する。層の厚さが薄
くなると細かな褶曲が発達する。とハンドブックは
教える。
教えられた目や脳はそのように地層を眺める。
海と空が大きく開けた岬の先端が前方に見えてくる。
崖はかなり高い。人間の数倍の高さ。
近寄りやや斜め横から見る。
さらに岩壁に寄って迫力を出す。
バン岬先端。
バン岬では約5000~4000万年前という気の
遠くなるような時代(始新世中期)に水深3500
~5500メートルの深海の底に棲んでいた生物
の化石(生痕化石 せいこんかせき)が見られる
という。(『琉球列島ものがたり』)
名護市教委のハンドブックにもその生痕化石の
写真が載っている。
バン岬の現場で直に見て撮りたかった。素人で
も容易に観察できる場所を教えてもらった。それ
が上の写真の岩である。
なお、化石の採取は文化財保護法により禁止さ
れている。行なえば犯罪になる。
干瀬の岩の上から天仁屋側を望む。
上の写真中央下の褶曲(大きく切り取った)。
このイノーに突出た岩場を渡り反対側に進む。
この日(8月1日)は干潮時の水位が3センチ
(翌日は1センチだった。歩いて行ける最高の
日だ。
写真中央の暗い陰になった窪みに鋭角の褶曲
(次の2枚①②)が見られる。
また、左端の岩にも見事な褶曲が見られる(写
真③)。
写真①
写真②
写真③ この褶曲は岬の反対側へ渡る途中の岩
の上で間近で見れる。
岬の反対側へ向かう
しばらく岩の上で休憩。ペットボトルの水を飲み辺
りの景観を楽しんだら、岬の反対側へ。
岩壁に足をかけたりしながら渡った。
潮位はまだ完全には下がっていない。
帰りの時間も考慮し渡れるときに渡る。
過去3回はここを海に中に入り渡った。
カメラや予備のバッテリーなどをビニール袋に入れ
防水しリックを背に恐るおそる進んだことが夢のよ
うだ。
渡りきる途中、前景の写真に見える岩壁に登る。
その上から撮っておきたかったのがこの写真。
前面からだと,横倒しなった大褶曲であることが
わかる。
左端が冒頭に掲載した先端を空に突き出した岩。
すばらしい心打つ岩山の姿。来て良かったとつく
づく思う。
できれば、辺りを飛ぶ鴉になってあの天辺の岩の上
に休みたい。
眺めながら数千万年前という地球の時間にふたたび
想いをめぐらす。
雲が湧き多くなった。
遠く眺めると嘉陽の海のイノーを薄綠色の干瀬が広
がっている。嘉陽にはよく来ているが初めてみる光景
だった。
周りは剥落した大きな岩塊が多数転がっている。
これも昔のこと、バン岬には烽火(のろしび)台が
置かれ山詰所も設置されていたと、名護市の市史
に書かれている。以下にその引用。
「1644年に沖縄本島や各離島に烽火台が置かれ、
唐船や異国船それに大和船などの監視にあたら
せた。
バン岬の烽火台は、本島東海岸の監視にあたらせ
現在の東村のイユー(魚)からの連絡を受け、与那
城間切の宮城島に連絡したという。
また、日露戦争のときも監視所として指定された。」
その烽火台はどこに設置されていたのだろうか。
忙しいだろう文化財係の係員がハンドブックの地図
でその位置を示し教えてくれた。
烽火台の場所を指した指先が指された小さな地図
の上をはみ出し、岬先端のかなりの範囲を覆う。
点ではなくて大きな面なので分かりづらい。それを
あとは言葉で補う。
教える係員の頭の中にあった具体的場所と、それを
聞いて想い描いた場所がどれほど一致していたか。
自信はないが、 たぶんに、おおよそこの辺りだろう
と思ったのが、上の写真で山の稜線がへこんだ辺り
か、その右側の岩山の近く。
当らずとも遠からずだろう。
無風なら烽火の煙が空高く舞上がり、潮風が強いと
横にたなびき上下し流れていったのだろう。煙にまか
れながら一生懸命薪をくべ火を焚く詰め所の遠見係
の姿が目に浮ぶ。
見たいと思った烽火台の跡は残念ながら残っておら
ず正確な場所は特定できないようだ。
なお、沖縄本島に設置された各烽火台の場所が記
された図が今帰仁村立博物館に掲載されていた。
岬側から嘉陽方面を望む。
図で見ると、バン岬の天然記念物指定の範囲は、
嘉陽側は長い砂浜のある辺りからになっている。
遠くに大きな崩落カ所が見える。
嘉陽までは1時間ほどの距離(約3キロ)。途中、
海にせり出した岩場が数カ所ある。
嘉陽側の海岸線も大潮のときでないと歩くのは
難しい。
天仁屋よりもイノーは発達しており、海岸には砂浜
も何カ所かある。
しかし、嘉陽集落の浜まで行くと、満ち潮で天仁屋
にはおそらく海岸線を戻れなくなる。
バン岬を去る。
大潮の時の海岸や嘉陽の海のイノーの様子を
見ておきたかった。
海岸にぽつんと1つ転がっている褶曲岩の塊。
その形から勝手に素人想像する。先端のあの岩
山の褶曲の一部が剥がれ、ごろごろとここまで転
げ落ちてきたたのではないかと・・・。
山反対側もこのように巨大な褶曲の一部と思われ
る地形が露出している。
長い海岸をてくてく歩き嘉陽へ向かう。天仁屋には
国道を越えて帰ろうと決めていた。
岩礁の上に黒い傘が見えた。年配の男性がひとり
イノーを眺めていた。
海岸で嘉陽でカフェ(共同売店の近く)を営んでいる
という髭の男性に出合った。数日前に話したことが
あった。
天仁屋からバン岬を歩いて来たことを話すと、
「歩けましたか」と嬉しそうに髭の顔がほほえんだ。
この方から、年数回だが大潮にはバン岬から嘉陽
まで歩いて来れる。イノーも干瀬が広がり歩ける。
だが途中で途切れたところがあり、そこは泳がなけ
れば渡れないと教えてもらっていた。
顎髭の男性と最初に会った数日前の日の嘉陽の浜。
発達した巨大な積乱雲がその下に降雨のカーテン
を垂らし遙か水平線を南からゆっくりと北へ流れて
いた。
朝日の名所でもある嘉陽は、実に積乱雲も絵になる。
左端の縦に伸びた雲は飛行機雲が広がったもの。
大気が湿っているため長く消えずに巻雲に変化して
いる。
砂浜に座り背をかがめているのがその男性。
積乱雲も素晴らしかったが、それと同じくらいに男性
の太く黒々とした濃い顎髭も印象に残った。
少し話して男性と別れる。お礼の気持ちもあり男性
のカフエに立ち寄った。初めて入る。ほんとに小さな
カフエで手作りの芸術的な雰囲気がある。奥さんが
いた。ジュースを一杯注文した。
壁の棚にサーフィンの写真集があった。素晴ら
い写真だった。カウンターには数冊の同じ詩集。
表紙の写真に見覚えがあった。オオシッタイで
会ったことがある四国遍路の話をしていた陶芸
家の詩集であった。
ジュースで喉をうるおし、嘉陽の集落を出て国道
331号線を一路天仁屋へ。
暑い。日陰から日陰へ移動しながら、再びてくてく、
てくてく歩く。
車のクラクションの音に振り向くと、海岸で出合った
青年が運転する軽トラックが横に止った。
天仁屋入口でいいと云ったが天仁屋の浜まで送っ
てくれた。感じのいい親切な青年だった。感謝。
翌日は天気が崩れた。その後、国道331号線の
嘉陽~天仁屋間で山崩れがあったことを知った。
〔補追〕
天仁屋に伝わる伝説 狩人と牛盗人
天仁屋の部落が未だ無く、そこがうっそうとした森林
だった頃、海岸の洞窟を住処にしている3~4人の
盗賊がいた。
盗賊達は近くの村から牛を盗み村人たちを困らせて
いた。
ある日、嘉陽の狩人が犬を連れ狩りをしていたが、
道に迷っているうちに天仁屋の海岸に出た。
見ると海岸の洞窟で盗賊たちが牛鍋を前に酒を飲
んでいた。村人を困らせている盗賊はこいつ等だと
思った狩人は、犬を使って盗賊たちを捕えた。
その時、狩人は辺りの地形の良さや水利の良さを
見て、いい所だと思い、村(嘉陽)に帰ってそのこと
を話した。
それから天仁屋の開墾が始まり、今の部落が始ま
っという。(『久志村誌』より)