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2017年06月24日

大田昌秀と平和の像

大田昌秀と平和の像



     臓腑こそ物言わんとす慰霊の日 
                
                            (山城発子) 





  昨日6月23日は慰霊の日。
  6月12日に満92歳で死去した大田昌秀元沖縄県知事が
  「6月23日」について語った言葉がある。


     二七回目の「あの日」 がやってきた。例年、わたしは
     「あの日」ーー六月二三日」が近づくにつれて心の平
     静さを保つことはできないが、今年はまた格別に重苦
     しく思われてならない。

     言いようもない苛立ちと恐怖さえ感ずる。「六月ニ三日」
     は「沖縄玉砕」の日である。おそらく沖縄戦の生存者は、
     わたしと同じく「この日」を平然と過ごすことはできないだ
     ろう。・・・


     わたしはこの日を境に前後三カ月というものは、ひどく
     暗い気持ちに閉ざされがちになる。・・・     
     極限状況下で目撃した地獄絵図さながらの光景を、わた
     しは生きているかぎり忘れることはできないだろう。


     あえて忘れようとすればするほど、恩師や友人たち一人
     ひとりの無残な死に様や、戦場における異常な人間行動
     の一こま一こまが、かえって鮮烈な画像となって眼前に立
     ちはだかる。

     異常な行動以上に、とくに学友たちの友情あふれる行為
     は忘れることができない。

     (負傷で)歩行のかなわぬわたしのために自らの命にも
     等しい食料を残らず置いて行ったまま二度と戻ってこない
     S君、他人に対しては生きることを強要しておきながら、
     自らは「斬り込み」を敢行して逝ってしまったU君、日本
     
     本土に妻子を残したまま敵の火炎放射器で見る影もなく
     焼かれてしまったS先生のことなど思うと、自分の余生が
     これらの亡き人びとに負うていることを痛切に感じないわ
     けにはいかない。


     ・・・摩文仁海岸には、まるで薬物を浴びた虫けらのように、
     死体の山がどこまでも連なっていた。それを目撃しながら
     わたしがいだいた疑問は、これほどの犠牲を正当化でき
     る「国益」とは一体何か、ということであった。・・・・

     「沖縄を防衛する」ための戦争だということも、ことば以上
     の意味は持ちえなかったし、少なくとも守られたのが沖縄
     住民でなかったことは明白だった。・・・

    
     沖縄には古くから「他から傷(いた)みつけられても寝るこ
     とはできるが、他を傷みつけては寝ることはできない」と
     いう趣旨の言いつたえがある。・・・・

     政府は権力を背景にして、その強引な施策を住民に強制
     できても、納得させることはできない。それをもしあえて強
     行すれば、さらでだに不信感をつのらせている沖縄県民
     との間にますます断絶を深める結果になることは必定で
     ある。

     返還協定が調印されたのに伴い、沖縄基地が否応なしに
     より危険な方向に質的変容をとげ始めていることは確かで
     ある。

     この重大な時期に「慰霊の日」を迎えるにさいし、わたしは
     どうしょうもない絶望感に打ちのめされながらも、地下の英
     霊ともども今一度、「沖縄を守る」「国を守る」とは、いったい
     何を意味するか真剣に考えなければならなくなった。


                    ーー大田昌秀『拒絶する沖縄』       
                                (1971年)
    
      
     沖縄住民にとって、「六月ニ三日」は、けっして・・「過去の
     日」ではない。それは文字どおり「現在から未来にかかわ
     る日」なので(ある)。・・・・

     政略手段に供せられるには、「沖縄の心」は、あまりにも
     切実だし、「沖縄の体験」はあまりに重すぎる・・・。
    
                    ーー大田昌秀『拒絶する沖縄』       
                                (1971年)
    

 
  同じ思いを抱く人たちは多いことだろう。声はださずとも・・・。



  大田昌秀と平和の像
   
   礎に刻まれた亡き身内の名の前で。
     慰霊の日は毎年訪れ三線を奏で琉球民謡を唄うという。
     ながい時間唄っていた。2017年6月23日。



    平和の礎の材は黒曜石で、その配置は波状型になっている。
   これは周りを海に囲まれた沖縄から非戦の誓いを世界に広
   げる永遠の波を表す。
   
  「『平和の礎』は単にひとつの戦争の慰霊碑という以上に。
  あらゆる戦争の慰霊碑であり、そのような破壊が二度と人
  類にふりかかることを防ぐためのわたしたちの共通の責任
  を想起させてくれているものです。」
  (大田昌秀『死者たちはいまだ、眠れず』)2006年)
  
    大田元県知事は、慰霊の塔や非戦の誓いの碑である
  「平和の礎」が政治利用されることを懸念していた。




 大田昌秀と平和の像

  沖縄師範健児之塔。2017年6月23日。


   

大田昌秀と平和の像

  摩文仁平和祈念公園の池に咲いていた蓮の花。




大田昌秀と平和の像

 


     日本人は醜いーー沖縄に関して、私はこう断言する こと
     ができる。・・・


     本土の日本人は、沖縄戦の実態をほとんど何も知っては
     いない。ましてや、沖縄県が、全人口の三分の一近くも
     犠牲に供した意味については、無知同然である。・・・


     65年夏に、沖縄を訪れた佐藤栄作首相は、「ひめゆりの
     塔」をはじめ第二次世界大戦末期の国土防衛戦で犠牲に
     なった人々の墓前で、涙ながらに「沖縄問題が解決しない
     かぎり、日本の戦後は終わらない」と述べ、

     ・・・沖縄の素朴な日本人の心に心情的な感銘を与えた。
     それから早くも四年目を迎えた。だが、沖縄県民の期待
     に反し、主要な沖縄問題は、ほとんど何も解決されてい
     ない。

     難問題の一つであった主席公選の実現も、沖縄県民み
     ずからの手でかちとったものでしかない。


     しかし問題は、沖縄戦の実態を知らないことではない。
     その意味を理解していないということでもない。沖縄戦に
     おける犠牲の意味をあいまいにし、・・・
   
     沖縄をして、ふたたび国土防衛の拠点たらしめようとの
     発想が、現実化しつつあるという事実である。しかも、
     沖縄県民がこれまで要望しつづけて「復帰の願望を叶え
     させてやる」から、といったぐあいに、
 
     恩きせがましく施政権返還と取引する形でやろうとして
     ているものである。・・・・


     沖縄の日本人は、もはや取り引きの具となったり、より
     大きなもののための手段となることを拒否し、みずからの
     幸福を人間的に追求することこそ、まっとうな生き方だと
     いうことを学びとっている・・・。 


     (この著書で)私が意図したのは、沖縄九六万の日本人が、
     異民族の軍政下という異常な状況のもとで、自由を求めて
     いかに自己変革を遂げていったか、

     そしていきつつあるかを明らかにすることであり、さらに沖
     縄県民の闘いは単に異民族統治者だけにたいするもので
     なく、日本政府、日本人みずからにたいするものであること
     を、歴史的事実で示すことである。

                     ーー大田昌秀『醜い日本人』
                                (1969年)


                
  大田昌秀元知事は、沖縄戦の「犠牲の意味」を問い平和を強く
  願い求めつづけた研究者であり政治家であった。 
  
  上に引いた言葉は、今から48年前のものである。
  沖縄県知事となる以前の、歴史研究者としてのものである。
  政治的な発言をしたものではよもやない。
     
  
  「日本人は醜い」・・・この強烈な断定。今なお変わらぬ沖縄の
  現実を前に「そうでない。間違っている」と、同じように強い意
  思をもって断定し否定できるだろうか。


  

大田昌秀と平和の像



  大田元知事の訃報を新聞で知った。3日後、朝から雨が降る
  日に摩文仁に行った。沖縄師範健児隊像(平和の像)が撮り
  たかった。


  糸満市摩文仁の3若人の群像。平和の像の碑の裏には
  後援者刻銘板が嵌め込まれている。建立発起人の筆頭に
  「大田昌秀」の名がある。


  知事在任(2001~2007)中、国籍を問わず、敵・味方の関
  係なく、また軍人・非戦闘員の別もなく、沖縄戦の全ての戦没
  者を刻銘した世界的に例のない「平和の礎」を建立(1995年)  
  した大田昌秀元沖縄県知事。鉄血勤皇隊の生存者の一人。


  その平和への強い意思は、摩文仁の戦場での体験、国のため
  に殉死した師や学友を慰霊する沖縄師範健児隊の碑の建立
  に遡る。
  
  


大田昌秀と平和の像

 
  沖縄師範健児隊像の碑。平和の像。

  裏の刻銘板には、像の制作者は野田惟恵(しけい)とある。
  東京都の吉祥寺に住んでいた高名な彫刻家で、たまたま
  「平和の像」建立者の一人である外間守善氏の隣に住ん
  でいたことで制作を依頼したという。
 

  
  台座にはめられた碑文の内容は次のとおり。


              碑 文

       昭和二十年三月三十一日、第二次世界大戦の最中、
     沖縄師範学校全職員生徒は、軍名により、第三十二軍
     司令部の直属隊「鉄血勤皇師範隊」として軍に動員され
     た。

       然るに同年六月二十二日、南西諸島方面軍最高司
     令官牛島満中将が自決するに及び師範隊は解散する
     に至ったが、この間、 總員四百八十名中三百有餘名
     が守備軍と運命を共にしたのである。

     ここに生存者の手によって「慰霊の塔」が建立されたの
     であるが、更に大田昌秀、外間守善編「沖縄健児隊」
     出版並びに同盟映画の上映記念事業として、廣く江湖
     の有志の方々の御援護の下に、この「平和の像」は建
     てられたのである。

     若い身命を捧げて散った師友人の冥福を祈ると共に、
     それらの尊い殉死によって齎された平和への祈願を
     永久傳えるべく生存者達は心から祈るものである。

       発起者   
         沖縄師範學校生存者
    



大田昌秀と平和の像

  雨に濡れる若人の群像。 
 
      右側の像 「友情」
     中央の像 「師弟愛」
     左側の像 「永遠の平和」

  をそれぞれ象徴している。 


      
    「わたしは敗戦後もひどく落ち込んでいました。それだ
    けに、いままた平和時において若い学友(早稲田大学
    で学生運動に身を投じ除籍処分。留学費用を出してい
    た米軍によって奄美大島に強制送還されることになっ
    ていた)の死に直面させられ、

    ひどく落胆するとともにそれ以上に強い思いで、慰霊の
    塔を一日も早く建立したいと考えるようになりました。
    しかし、一介の学生の身分では、全県的規模の慰霊の
    塔を建立するのは、とても手に負えない困難な仕事で
    した。

    そのため、さしあたっては、最初に自分と一緒に戦場
    に出て戦死した沖縄師範学校時代の恩師や学友たち
    の慰霊の塔を建てることから始めたいと思うようにな
    りました。

    早稲田大学三年の時、同じく東京にいた同級生の外間
    守善君、安村昌享君と語らって、戦争体験記(『沖縄健児
    隊』)を一冊にまとめて世に問うことにしました。・・・

    その本が、思いもよらず、松竹映画株式会社から映画
    化したいと要請されました。・・・

    ところが、すでに同窓の他の学友たちが、慰霊之塔を金
    城和信氏が建てた『健兒之塔』の傍らに建てたことを知ら
    されました。すなわち『沖縄師範学校健児の塔』というも
    のです。 

    そこで、・・映画の制作料で、慰霊の塔を作る代わりに
    「平和、友情、師弟愛」を象徴する三人の学徒の彫像か
    らなる『平和の像』を建立することに計画を変えました」
    (『死者たちは、いまだ眠らず』より)  
  
    


大田昌秀と平和の像

  「友情」の像



大田昌秀と平和の像

  「師弟愛」の像。 
  悲痛な思いを秘めた表情をしているように思える。



大田昌秀と平和の像

  「永遠の平和」の像(正面)



大田昌秀と平和の像

  雨が強くなってきた。
 


大田昌秀と平和の像



     


大田昌秀と平和の像




      「本当に日米安保条約が重要であるというなら、それが
      日本を含めたアジア諸国全体の平和に寄与するとい 
      うなら、その責任と負担をなぜ本土自ら負おうとしない  
      のか・・・

      弱い立場におかれている所を犠牲にすることで安保を
      維持するというのは、人間的な生き方ではないのでは
      ないか。

      本土の方は安保体制が重要だとしながら、どなたも自分
      で引き受けようとしない。それは沖縄県民が日本国民と
      して同じ待遇を受けていないということではありませんか。

      沖縄問題は日本の民主主義の問題だと思います。」


                            ーーー 大田昌秀  
                         (雑誌のインタビューで) 
               『大田沖縄県知事8年目のあゆみ』NO8.
                              
                        
     
  「沖縄問題は日本の民主主義の問題だと思います」
  この言葉は沖縄問題を考える根幹となる名言だと思う。
  

 

大田昌秀と平和の像
                                                 摩文仁の波濤
  



  平和の像のある沖縄師範健児之塔の霊域には
  4つの歌碑がある。さらにガマ(自然壕)の前の断崖の岩に
  歌が一首刻まれている。



大田昌秀と平和の像


        ひとすちに くにをまもらんと
        わかうとら いのちはてにき
        え里(り)をたゝさむ

                  (坂上房太郎)


  この歌碑は平和の像に向い左隣に設置されている。 




大田昌秀と平和の像


        茂りあう夏草かなし 今にして
          君は静かに ふかくねむりけり

                     (詠み手は不明)


  歌碑の裏に「昭和34年7月 日本生物教育会沖縄大会
  会長中路正義 外参加全員弐百拾参名」と刻されている。 
  歌碑は平和の像に向かって右側手前にある。 

  素人には流麗な碑文の文字は読み取りが難しい。
  電話である方から教えてもらった。   
   



大田昌秀と平和の像


  この歌碑と次の仲宗根政善先生の歌碑は、
  沖縄師範健児之塔の左横に前後して設置されている。



大田昌秀と平和の像


  作者は仲宗根政善先生(1907~1990)。
  ひめゆり学徒隊への鎮魂歌はよく知られている。
 
     いわまくらかたくもあらん やすらかに
        ねむれとぞいのる まなびのともは


  次の歌も詠んでいる。

     わが命つづく限りは 血のしみし
        あとをたづねて とぶらひ行かむ  

     
  

大田昌秀と平和の像

      小石もて戦(たたかい)せしと きくにつけ
        身につまされて 悲しかりけり


 

大田昌秀と平和の像

  「小石もて戦いせし・・」の歌が刻まれている崖の岩壁。
  2.5~3mくらいの高さにある。作者名はない。


  摩文仁の丘の黎明の塔入り口方面からの下り
  階段の出口近くの壁。
  階段を下る場合でないと、見逃し通り過ぎてしまうかも
  知れない。
 


   (追記)
   「作者名はない」と書いたが作者名はあった。
   以下のとおり、歌の左下に小さく刻まれていた。
  
     日本民主同盟
     会長 松本明重       


   

大田昌秀と平和の像

  「沖縄師範健児之塔」(1950年6月建立)から平和の像
  を見る。




大田昌秀と平和の像





大田昌秀と平和の像

 「沖縄師範健児之塔」霊域の全体。



 沖縄師範健児之塔前に塔の由来と鉄血勤皇師範隊の編成が
 説明されてある。


大田昌秀と平和の像

  合祀柱数は職員・生徒の計319柱とある。



大田昌秀と平和の像



  沖縄師範健児隊は幾つかの隊に編成され司令部とともに
  行動。
  
  大田昌秀元知事は情報宣伝隊(千早隊ともいう)に配属。

  著書『鉄血勤皇隊』(昭和52)は戦場での体験の記録。
  これを読むと、沖縄戦の実態がいまなお、いかに知られて
  いないかがわかる。

      戦場における鉄血勤皇隊の動静については、日米
      両国の戦史の随所に記録されていることだが、多く
      の場合、学徒隊の犠牲の大きさについては看過され
      がちである。(大田昌秀『拒絶する沖縄』)


  『鉄血勤皇隊』は古本屋で見つけることができるかも知れない。
  平和祈念資料館の図書室にもあるが、貸し出しはしていない。

 
  なお、大田昌秀元知事が死去した6月12日には、最後の
  著書となった『沖縄鉄血勤皇隊』が出版されている。
  2160円。高文研から出版。

  大田昌秀元知事は、1925年6月12日久米島で生誕。
  そして奇しくも『沖縄鉄血勤皇隊』を出版予定していた同じ
  6月12日に死去している。
        



大田昌秀と平和の像

  
  1946年3月、当時真和志村長だった金城和信(わしん)夫妻
  によって、ガマの上に建立された「健兒之塔」。
   高さ1m足らずのこの塔は、戦後すぐ最初に設置された意義
  ある塔であるが見過ごされてしまいがち。気づかない人も多い。



    終戦の翌年1946年、真和志村民は、各地の収容所から摩文
  仁の米須に移動し、米軍払い下げのテント小屋で暮らしていた。
  金城和信氏は米軍から真和志村の村長に任命されていた。

  金城氏は戦場に散乱していた遺骨を村民とともに収集し「魂魄
  之塔」を建立。その後、「健児之塔」「ひめゆりの塔」も建ててい
  る。


  「そのころ摩文仁一帯の山野は、戦火で赤黒く焦げ、岩肌は
  砲火を浴びて白くえぐり取られ、一面白く剥(む)き出しの岩
  石に覆われ一点の緑の影さえ見当たらない状態でした。

  まわりの畑や岩陰は、いまだ硝煙の臭いが立ちこめ、無数の
  腐蝕した遺体が風雨にさらされたままだった。

  真和志村民は・・・見るに忍びず、金城村長を先頭に米軍糸満
  地区隊長に収骨する許可を願い出ていました。しかし、許可は
  容易に下りませんでした。     

  金城村長は、常々「同胞の遺骨を収集したために刑に処せら
  れることがあれば、喜んで首を呈する」と公言していたようです。
  彼は、・・・通訳の日系二世に沖縄の祖先崇拝の念の強さと死
  者への追悼心の深さを熱心に説いて聞かせ・・ついに〈収骨の
  みに限って認める〉との文書による許可を得ることができました。

  ・・・こうして数千体におよぶ収骨した遺体は、担架で海岸沿い
  に広場に集められました。そして金城村長は、二人の僧侶にお
  経をあげてもらい、村民に慰霊の塔を建立する旨、伝えました。
  そんなことをしたら米軍から何をされるかわからない、と協力を
  拒否する人たちもいたようです。

  こうして彼は、米軍のあまったセメントや使い古しの寝台の鉄骨
  などを利用して、周囲から石を積み上げて納骨所らしいものを
  つくり上げました。これが、戦後最初にできた慰霊の塔「〈魂魄
  の塔〉です。・・・

  その後、金城和信夫妻は、男子学徒たちの御霊も祀りたいと
  沖縄師範男子部の生徒たちが入っていたという大きな岩に囲
  まれた自然壕を探しあて、壕の上に1メートルほどの岩石でつ
  くった小さな慰霊の塔を建てました。

  金城氏は、その塔を『健兒之塔』と名付けて、自ら石碑にその
  塔名を刻みました。金城氏は、ほぼ時を同じくして、当初の『ひ
  めゆりの塔』も建てました。(後に現在の塔に作り替えられまし
  た)」(大田昌秀『死者たちは、いまだ眠れず』)
  
     
      和魂(にぎたま)と なりてしずもる 
      おくつきの み床の上を わたる潮風
     
                       (翁長助静)
 
  翁長助静氏は、翁長沖縄県知事の父親である。 
        



 



大田昌秀と平和の像

  書物を手にしためずらしい地蔵像。
  霊域の広場右手にある。


大田昌秀と平和の像

  蓮の台座の文字は「弥勒平和地蔵尊」と読める。  



大田昌秀と平和の像

  地蔵の横にある古い高木の幹の根元近くに新緑の 
  芽が出ていた。



大田昌秀と平和の像

  師範健児隊が入っていた自然壕(ガマ)は平和の像の裏手
  にある。
  平和の像が設置されている場所は壕の天井部分の岩盤
  の上になる。



大田昌秀と平和の像

  階段を下りると壕の入り口がある。 
  この壕は沖縄守備軍司令部の食料品を貯蔵管理する場所だった。
 


大田昌秀と平和の像





  以下のガマ(壕)の写真は2012年の慰霊祭で撮ったもの。 
 

大田昌秀と平和の像
                        2012,6,23 慰霊祭

   
 
大田昌秀と平和の像

  壕の中は納骨堂になっている。
 


大田昌秀と平和の像




大田昌秀と平和の像





大田昌秀と平和の像

  沖縄師範健児之塔へ向かう階段。
  右下の路は溜まり水でできた井泉(カー)へ下る。

  健児之塔のある辺りの霊域を訪れる人はそう多くない。
  礎(いしじ)や平和祈念資料館や祈念堂のある駐車場から
  場所が遠いためだろうか。

  国のためにと殉死した学徒たちの霊を祀る沖縄師範健児
  隊之塔。同じ年齢の修学旅行生の団体でもここまでは来ない。




大田昌秀と平和の像

  キダチチョウセンアサガオの花。
  カー(井泉)への途中に咲いていた。
  図鑑では秋に咲く花のようであるが・・・・。



 
大田昌秀と平和の像

  中央左側のくぼんだ場所に大きな岩石があり水が溜まっ
  ている。道は海に続いている。



大田昌秀と平和の像

  戦時中使用されたカー(井泉)。

  湧水ではない。周囲の水が地中などをとおって大きな岩
  石の下に集まって溜まった井戸という。
  戦前は生活用水として使用していた。小さい頃水を汲み
  によく行ったと老齢の女性が話す。
 
  「チンガー」という名だと、釣りをしていた地元の方が教え
  てくれた。「タマイガー」(溜まりガー)だと教える人もいた。
 


大田昌秀と平和の像
 
   チンガーに向けて酒と水の入ったコップが捧げられていた。
   ここは拝所となっている。



大田昌秀と平和の像

  チンガーから150mほど進むと海岸に出る。



大田昌秀と平和の像





      私は岩山をさまよったあげく、疲れた体を岩と岩の間
      に横たえていた。・・・私ははからずも、自分の身近に
      モヤシのように脚の長い夏草を見いだした。

      ほとんど土砂もないこの片隅に身をひそめるように、
      万象と共に生のいとなをつづけている名も無い草に
      私は、一種の感動を覚えた。・・・・

      置き忘れられた生存、それでいて平和に生きている。
      その小さな事実が奇妙なほど私に忘れかけていた
      「生」への意識を呼び戻した。「よし、生きるぞ」私は、

      思わず呟くと仰向けになった。岩肌がぐっと顔の上に
      迫り、雫の跡が幾本も線を引いて濡れていた。
      指先で岩面に「生」の字を何遍も書いているうちに、
      私は眠ってしまった。
      
                  ーーー大田昌秀『鉄血勤皇隊』   




  ここの海岸には、波濤や鳥(サギやアジサシ)を撮るために
  よく来た。梅雨が明けて、すっきりした青空に白雲が見られ
  る頃になったら来るつもりだった海岸。

  『鉄血勤皇隊』を読んだ後では、もうこれまでと同じようには
  歩くことが出来なくなるだろう。




大田昌秀と平和の像
                                     (健児之塔前の摩文仁海岸)



大田昌秀と平和の像




大田昌秀と平和の像
                                            (ギーザバンタ)



  日本が降伏したあとも、捕虜収容所に入れられるまでの二ヶ月
  月ぐらい、摩文仁の海岸をさまよっていた大田昌秀健児隊員。
  その時に、臼井兵長(東京文理大学英文科出身)と出会う。
  
  大田元知事は、この出会いがその後の人生に大きく影響を与え
  たと語っている。

   
      二週間ほど前の晩方、この辺りの敵陣地から空に向
      かって一斉に砲撃がされたことがあったね。みんなが
      (日本軍)特攻隊の来襲だと喜んだ時さ、あれは実は
      敵の勝利の祝砲だったんだよ。八月十五。六日だ。
      臼井兵長は、そういって寂しげに笑った。・・・

      一週間ほど前に敵機から撒かれたビラに、「日本降伏」
      の文字が見えたが、私はすかさず踏んづけて、泥の中
      にこねてしまった。

      実は・・・なんとなく読んでみたいとは思ったが、勝つた
      めにと死んでいった学友や民家の人たちや無数の兵士
      のことを考えると、それをとって読むのがこわかったのだ。

      ・・・・「ね、大田君、君は勉強しろよ。本も読みたいだろう、
      機会があったらきっと東京へ出てこいよ」
      臼井兵長の言葉が、優しい兄の言葉のようにしっとりと
      胸に落ちる。

      「二度と失ってはならないものだ」
      ポツリと臼井兵長はつけ加えた。その言葉の意味はよく
      わからなかったけれども、その語感から受ける感じが何
      かしら私の心に大きな感銘を与えた。・・・・

      彼はいろいろな事を話してくれたが、日本が負けたこと
      は当分誰にも話してはいけない。徒に皆を騒がすことに
      なるからと繰り返し念を押した。

   
                    ーー 大田昌秀『鉄血勤皇隊』
                              (昭和52年)

  
      ・・・周辺には敗残兵がうろうろしていて殺気だっているか
      ら、日本が負けたなんてことを言ったらすぐにやられてし
      まう。絶対に口外するなと口止めされた・・・

      周辺では米軍の敗残兵狩りがまだ続いており、生き延び
      る可能性は全くないに等しかったのですが、(もし生き延
      びることが出来たら東京にでて英語を勉強しろよという)
      この言葉は私の人生を決めるほど強烈でした。

  
                            ーーー 大田昌秀  
                         (雑誌のインタビューで) 
               『大田沖縄県知事8年目のあゆみ』NO8.
                                 (1998年)   




    
大田昌秀と平和の像
  
  平和祈念資料館2階の戦時中の写真や遺品、証言集な
  どの展示室を抜け出た最後の空間に展示されている文。
  沖縄県の平和宣言文といえる。

  
  「展示室を抜けてこの文を読んだあと、外に出て光り輝く
  太陽のある自然の美しさに触れてほっとし、平和のありが
  たさをつくづく思うだろう・・・」展示室を暗くしたのには意味
  
  があるんだと、旧県平和祈念資料館の展示をプロデュー
  スした中山義彦さん(2016,9月死去)が語っていたこと
  を思い出した。

  

  
大田昌秀と平和の像
                                              摩文仁の海岸



大田昌秀と平和の像
                                               摩文仁の波濤



大田昌秀と平和の像
                                              
           


大田昌秀と平和の像
                                                          









Posted by 流れる雲 at 22:50│Comments(0)
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