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2017年05月07日

屈原の詩「漁夫」

屈原の詩「漁夫」
                                          2017,4,26 糸満市

   
  糸満市大里の湧き水カデシガー(嘉手志川 )近くのデイゴの花。
  開花の様子見で行った4月下旬。まだ四分咲きほどだった。
  そのカデシガーや辺りの畑の空に端午の節句を祝う鯉のぼりが
  風に泳いでいた。
  
  ここのデイゴの花は地元の方は5月連休の頃が最も見頃だと話し
  ていた。昨日行ったら、雨天の影響だろうか4月に咲いていた枝の
  花は散り、他の枝の咲き具合もまばらだった。
  撮る気にはなれない。来年に期待だ。

  5月6~7日は子供たちのためのイベントを行うと公民館の方は語
  っていた。天気が悪いためかイベントは行われてなく雨で重くなった
  鯉のぼりが寂しく尾を垂らしていた

  

屈原の詩「漁夫」
                                         2017,4,26 糸満市


  鯉のぼりの舞う端午の節句や那覇ハーリーで思い起こされるのは
  中国の詩人屈原。

  端午の節句の粽(ちまき)や龍船競漕は、今から約2300年ほど前、
  中国戦国時代、楚の国の行く末に絶望し汨羅(べきら)の流れに入水、
  命を絶った(旧歴5月5日)屈原の故事に由来するいう。

 
  屈原については横山大観の絵で知っていた。詩は読んだことがあった
  のかないのか記憶にない。遠い昔、高校の古典の授業や受験勉強で
  見聞きしたことはあったかも知れない。
  
  図書館から中国の名詩2『滄浪のうた 屈原』(目加田誠訳、平凡社)
  を借りてきた。この書には、屈原の代表作だという「離騒(りそう)」、や
  「魚父(ぎょほ)」、「懐沙(かいさ)」などが載っている。

  「離騒」は長い詩なので省略。比較的短い「魚父」 と「懐沙」を抜き出す。
  (「懐沙」は訳文のみ)




屈原の詩「漁夫」
                                         2016.4.19 万座毛


  
      漁 父 (魚父(ぎょほ)との対話)          
                          
                                                    
  屈原は放逐(ほうちく)された後
  江や淵(ふち)をさまよい
  沢のほとりを行きつつ歌っていた
  顔色はやつれ
  その姿は痩せ衰えていた
   
  漁父がそれを見て尋ねて曰(い)った
  あなたは三閭大夫(さんりょうたいふ)さまではございませぬか
  何でまたこのような処に


  屈原はいった
  世間は皆濁っているのに
  私ばかりが澄んでいた
  人々は皆酔っているのに
  私ばかりが醒めていた
 
  だからこそ放逐されたのだ



屈原の詩「漁夫」



  魚父はいった

  聖人は物事にこだわらず
  世間につれて移るという
  世の人が皆濁っていれば
  なぜご自分もその泥をかき濁し
  その波を揚げようとはされませぬ

  衆人が皆酔っていれば
  なぜご自分もその糟(かす)をくらい
  その糟汁をすすられませぬ

  なぜそのように深く考え高尚に振舞い
  みすみす放逐を招かれたのか


  屈原はいった  私はきいている

  髪を洗ったばかりの者は必ず冠を弾(はじ)いてかむり
  湯浴みしたばかりの者は必ず着物を振るって着ると
  どうして潔(きよ)らかな身体をして
  汚塵をこの身に受けられようか

  いっそ湘水(しょうすい)の流れに身を投げて
  魚の餌食(えじき)となろうとも
  どうして潔白なこの身体に
  世俗の塵埃(ちり)を受けられよう


  魚父はにっこりと打笑い  
  船ばたを叩いて歌って去った

  「滄浪(そうろう)の水澄めば
  冠の纓(ひも)が洗えよう
  滄浪の水濁れば
  それで足を洗えばよい」と

  そのまま去ってもう何も語らなかった
 
   


屈原の詩「漁夫」
                                            2015.12.5 残波岬 

 
屈原の詩「漁夫」


        
 
   漁父
                            
  屈原既放           屈原既に放たれて
  游於江譚           江譚(こうたく)に遊び
  行吟澤畔           行行(ゆくゆく)澤畔(たくはん)に吟ず
  顔色憔悴           顔色憔悴し
  形容枯槁           形容枯槁(ここう)す
  漁夫見而問之曰       漁夫見て之(これ)を問う
  子非三閭大夫與       子(し)は三閭大夫(さんりょたいふ)に非ずや 
  何故至於斯          何の故に斯(ここ)に至るやと

  屈原曰             屈原曰(いわ)く
    擧世皆濁           世を挙げて皆濁り
    我獨清             我独(ひと)り清(すめ)り
  衆人皆醉           衆人皆酔い
  我獨醒             我独り醒(さ)めたり
  是以見放             是(ここ)を以て放(はな)たると
   
  漁夫曰             漁夫(ぎょほ)曰く
    聖人不凝滞於物       聖人は物に凝滞(ぎょうたい)せずして
  而能世推移          能(よ)く世と推移す
  世人皆濁           世人(せじん)皆濁らば
  何不淈其泥而揚其波    何ぞ其の泥を濁して其の波を揚げざる
  衆人皆醉           衆人皆酔わば
  何不餔其糟而歠其釃    何ぞ其の糟を餔(く)らいて其の釃(り)を歠(すす)らざる
  何故深思高擧        何の故に深く思い高く挙がりて
  自令放爲           自ら放たれしむるを為(な)すと 
  
  屈原曰吾聞之        屈原曰く  吾(われ)之(これ)を聞く
  新沐者必弾冠        新たに沐(もく)する者は必ず冠を弾(はじ)き
  新浴者必振衣        新たに浴する者は必ず衣(い)を振(ふ)るうと
  安能以身之察察       安(いずく)んぞ能く身を察察(さつさつ)たるを以て
  受物之汶汶者乎       物の汶汶(もんもん)たる者を受けにや
  寧赴湘流           寧ろ湘流 (しょうりゅう)に赴(おもむ)いて
  葬於江魚之腹中       江魚(こうぎょ)の腹中に葬らるるとも
  安能皓皓之白        安んぞ能く皓皓(こうこう)の白きを以て
  而蒙世俗之塵埃乎     世俗の塵埃(じんあい)を蒙(こうむ)らんやと

  漁夫莞爾而笑        漁夫莞爾(かんじ)として笑い
  鼓枻而去歌曰        枻(えい)を鼓(こ)して去り 歌って曰く
  滄浪之水清兮        滄浪(そうろう)の水清(す)まば
  可以濯吾纓          以て吾が纓(えい)を濯(あら)う可(べ)く
  滄浪之水濁兮        滄浪の水の濁らば
  可以濯吾足          以て吾が足を濯う可く 
  遂去不復與言            遂に去って復(ま)た言わず


      ※

    ・漁夫=老とった漁師。「父」は「ほ」と読むと老人を指す。
  ・江譚=川辺
  ・澤畔=沢のほとり
  ・三閭大夫=楚の王族の三つの名家(昭、屈、景)を統括する官職。
  ・湘流=湘江のこと。
  ・察察=潔白なこと。清らかなこと。
  ・汶汶=垢塵を被ること。汚れた様子。
  ・皓皓之白=真っ白なこと。「皓皓」は白いものの形容。
  ・滄浪=長江支流漢水の下流。楚を流れる。
    ・莞爾(かんじ)=にっこりと笑うこと。
  ・枻(えい)を鼓ち=船の縁をたたく。枻は櫂(かい)のこと。
      (「ギイギイ音をたてて櫂を漕ぐ」と訳する説もある)         
  ・滄浪=長江支流漢水の下流の川の通称。楚を流れる。  
  ・纓(えい)=冠の飾り紐。  
  ・遂=そのまま 


  「漁夫」(または「漁夫辞})は、屈原の作と伝えられているが、その
  内容から屈原の作ではなく、屈原の死後、後生の者が屈原と漁夫
  問答の形を借りて歌ったものとの見方が定説のようだ。


  王族を統括する高い官職にあり大詩人であった屈原に対して、
  にっこりと笑みを浮かべ、
  「滄浪(そうろう)の水澄めば/冠の纓(ひも)が洗えよう/
  滄浪の水濁れば/それで足を洗えばよい」と、言い放ち漕ぎ去る
  世を達観した漁夫の台詞が心に残る。
  この締めくくりでは確かに屈原の作ではないだろう。




屈原の詩「漁夫」


                            

  屈原
  紀元前343年1月7日~紀元前278年5月5日(旧歴)。
  楚の国の王族の出身。宮廷に仕える政治家で当代随一の詩人。
  孟子や荀子などの諸子百家の同時代人。
 
  「屈原は、名は平(へい)、楚の王と同族である。楚の懐王(かいおう)
  の左徒(さと。官名)であった。博聞強記で、治乱の事績に通じ、文辞
  に習熟していた。外にあっては、賓客に接遇し、諸侯に応対した。
  王は彼を非常に信頼していた」

  とは、司馬遷の『史記』(中国古典文学大系第11巻『史記(中)』
  野口定男訳、平凡社)の「屈原賈生列伝」の書き出しである。
  この「屈原列伝」が屈原の伝記を語る唯一のものらしい。
    
  
  屈原が、王の信頼厚く政務に関わった得意の時期は永くは続いてい
  ない。「屈原列伝」を詠むと、戦国時代、楚の国の危機の時期に奸臣
  のねたみと讒言によって王から疎んじられ国を追われた、祖国愛の強
  かった高潔で清廉な屈原の無念、恨みがわかる。
 
  紀元前378年、秦が大軍をひきいて楚に進入。楚の都は陥落する。
  頃襄王(懐王が秦に捕らえられたため王に立てられた)によって放逐
  されていた屈原は国を救う望みが途絶えたと感じ、旧歴5月5日の
  端午節に石を抱いて汨羅の淵に身を投げる。


   ネットのウィキペディアには「汨羅江の漁民は龍船(ドラゴンボート)を漕
  いで競って屈原を助けに行ったが果たせず、屈原の遺体が魚に食われ
  ないよう竹葉に包んだ糯米(もちごめ)を河に投げて屈原のための祭祀
  を行った」と伝来についての説明がある(「汨羅江」の項目)。


  なお、糸満市のハーリーは旧歴の5月4日に開催される。

 

屈原の詩「漁夫」


     
           ※
  

     懐 沙 (沙石をいだいて)         
                          
                                                    
  陽気盛んな夏の初め
  草木鬱蒼(うっそう)「たと茂るとき
  心をいため永く哀しみ
  南土をさしてひたむきに往く


  目(ま)ばたいて見ても暗く遙かに
  行く手はひそとして物音もせぬ
    胸をふさぎむすぼれいたみ
  憂き目におうて長く苦しむ
  心をなだめ内に省み
  しいて忍んで我を抑(おさ)える


  人は四角な木を削って円くするとも
  我は常の法度を替えることはせぬ
  初めから道を易(か)えるのは
  君子のいやしむところだ

  線を描き墨縄(すみなわ)を打った上は
  はじめの図面は改められぬ
  心厚く質(さが)正しいのは
  大人のほめるところ
  だが巧(こう)すいも切って見せねば
  誰がその揆度(はかり)の正しさを知ろう


  黒い文(あや)を幽暗(くらき)におけば
  目の見えぬ者は模様がないといおう
  離婁(りろう)も細く流し目すれば
  盲者は彼が見えぬかと思おう 

 
  白を黒とし
  上を下とし
  鳳凰は籠(かご)に捕(とら)われ
  鶏やあひるはかけり飛ぶ


  玉と石とをこき混ぜて
  ひとかきに升(ます)で量る
  さても党人のいやしさよ
  ああわが心中を知りはせぬ


  荷は重く積み荷は多く
  ぬかるみにはまってわたられぬ
  美しい玉を抱きながら
  今では見せるべき人もいない


  里(さと)の犬は群れて吠えるのは
  見馴れぬ者を恐れるのだ
  俊傑(すぐれもの)をそしり疑うのは
  もとより凡人のわざなのだ

  文(かざり)少なく性質(さが)疎(うと)ければ
  人は私のすぐれた才を知らぬ
  材木を積んでまっているのに  
  人は私のたくわえを知らぬ


  仁をかさね義をかさね
  厚く謹んでおのれを豊かにしてきたが
  舜(しゅん)のような君には逢えず
  誰が私の挙動(ふるまい)の真実を理解しよう


  昔も聖王と賢臣とが出逢わぬことが多かった
  それがなぜだか私は知らぬ
  湯王(とうおう)・禹王(うおう)はあまりに遠く
  遙か昔で追う由もない


  恨みを止(とど)め怒りを変えて
  心を抑えてみずからつとめ
  憂き目に遭うても操を易(か)えず
  願わくばわが志が後の世の法(のり)とならんことを


  北に進んで宿ろうとすれば
  日はうす暗く暮れかかる
  憂いを晴らし哀しみをなだめて
  やがて死んで以て終わりとしよう


  乱に曰く
  広々とした沅湘(げんしょう)の水は
  やまず分かれ流れゆく
  暗く蔽(おお)われた長い路は
  遠く遙かにはても知らぬ


  真情(まごころ)と美質(よきさが)とを抱きながら
  それを証(あかし)する者はない
  伯楽(はくらく)が死んでしまっては
  駿馬も誰が見識ってくれよう


  人みなこの世に生まれては
  おのおのにその定めがある
  心を落ちつけ志を広く持てば
  何のおそれることもない


  かさねていたみ泣き哀しみ
  永く嘆息するばかり
  世は濁(よご)れてわれを知る者なく
  心は誰にも訴えられぬ


  死のさけられぬを今は知り
  願わくばこの命を惜しむまい
  明らかに世の君子に告げる
  私はこの世の法(のり)となろう



  「かくて、石を懐(ふところ)に入れて、ついに汨羅(べきら:
  汨水と羅水の合流点。湖南省)に身を投げて死んだ」と『史記』
  にはある。


   ・離婁(りろう)=視力が優れていたという伝説上の人物。    
   ・伯楽=中国周代の人。馬の相を見分けた名人。


 

屈原の詩「漁夫」
                                     2016.9.20 県総合運動公園
  「鳳凰は籠に捕われ/鶏やあひるはかけり飛ぶ」

 


屈原の詩「漁夫」

  屈原(部分)  横山大観画、1898年(明治31)
           『講談社版日本近代絵画全集15 横山大観』より

  
  横山大観が屈原の画を描いたのは、東京美術学校を
  追われ悶々のうちにあった岡倉天心を、決意を秘めて
  さまよう屈原に重ねたこの画によって象徴しようとした
  からであるという。




            ※       ※       ※




屈原の詩「漁夫」

  
  カデシガーからの帰り壺屋に寄った。壺屋陶器博物館近くの4畳
  ほどの小さな陶器販売店で見かけた猫。

  入り口に背を向け展示された陶器の間で寝ていた。客が来ても
  じっとして全く動かない。太った猫だった。
  店の若い男性が顔を出し猫に触れないでと言いながらテーブル
  の注意書きを指さす。 

  とても狭い通路を陶器に身体が触れないよう気を遣いがら、猫の
  顔が見える側に回り撮った。シャッターの音にびっくりさせないか
  気になる。



屈原の詩「漁夫」
 
  別の角度から撮る。するどい眼をしているのに気づく。
  あらためて最初の写真を見ると店内がやや暗く気づかなかったが、
  片眼を開けているようにも見える。人の気配で眼を覚まし様子を窺
  っていたのだろうか。

  びっくりさせて猫が立ち上がったひょうしに回りの陶器を破損して
  いたらと今さらながら思う。  



  壺屋は猫よりシーサーガ多かった。
  壺屋を散策しながらシーサーの撮り歩きもいいかと思う。



屈原の詩「漁夫」



屈原の詩「漁夫」

   

屈原の詩「漁夫」



  

 





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Posted by 流れる雲 at 05:00│Comments(0)詩・歌・俳句
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