(中城城跡正門前)
(中城城跡裏門前)
(中城城跡一の郭の石階段)
2018年。新年が明けた。
初日の出を撮ろうと泡瀬・県総合運動公園の海岸に行く。
まだ薄暗い海辺を人影が埋めていた。かなりの人々が訪れている。
海は凪ぎ。足下に波が音もなく寄せては返す。
午前7時10分過ぎ。
水平線に横たわる暗い灰色の雲の上に太陽が現れた。
輝きを増しゆっくりと静かに昇っていく。見つめる人々の顔が朝日に映える。
水平線の厚い雲の上空には雲はほとんどない。北から南にゆっくりと流れ
る二つ三つの片雲だけ。構図をつくるのは難しいそうだ。
20メートルほど沖にあるいるか島(またはとうふ岩とも呼ぶ)の黒い影の
左右どちらに太陽を配置するか迷う。
右側に太陽を配置する。いるか島のススキのシルエットを活かして撮りたい
と思った。太陽の全体が現れる。やがてあの雲も流れてきた。
ススキのシルエットに太陽をもっと近づけてみた。
いるか島とは広域道路地図(福岡人文社)に掲載されている名。その由来は
知らない。「いるか島」が市販の地図に記載されていることを知る人は少ない。
別名のとうふ岩の名の由来は、一昔前、地元の小学校教師が、この岩(島)を
とうふ岩と名付け物語を創作し子どもたちに聞かせたことによるという。
地元の年配の方から教えてもらった。
いるか島について、この海岸に朝日を撮りに来た方と話をしていたら、その方
が「岩の形がイルカに似ているからですかねえ」と言う。
言われてあらためて岩を眺める。潮は満ちている。岩の右側のシルエットが
イルカの顔に似ていた。いるか島の名はそこら辺りからきているかも知れない。
父親と初日の出を見に来ていた小学生の男子が「ゾウさんに似ている」とい
う。全体がゾウに似ているらしい。何度見てもどうにも似ていない。しかし似
ているという。どう似ているのか訊ねると左が頭で右がからだと答える。
再度つくづくと全体を把握する(特定のカ所に意識を集中するのでなく、岩全
体を集中して見る。)ように見ていると、ゾウが見えてきた。後ろ向きかと訊く
とそうだと男の子は頷いた。ほっとする。それぞれの立場、人生経験、興味な
どで物の見方は異なる。見方のみでなく聞こえる音さえ。
サン・テグジュッペリの『星の王子さま』を思い出す。星の王子は帽子の中
にゾウが隠れているというが大人にはそれが分らない。
初日の出を撮ったあと中城城趾に向かった。ツワブキの花を見たかった。
中城城跡での「初日の出観覧」には約500人近くが集まったという。
中城城趾のツワブキ
城趾前広場に生えているツワブキ。まだ蕾が多い。明るい黄色の花を新春
の朝の光が照らす。
初春や朝日に映える石蕗の城
このツワブキは城跡から相当離れている(約100メートル)。株も花も少ない
ので手前に大きく入れた構図で撮る。
「中城城趾の城内には、毎年12月から1月にかけてツワブキの黄色い花が
咲き誇る。ツワブキは、先中城按司(さちなかぐすくあんじ)や護佐丸時代か
ら、この大地に根付き、自らも世代をつなぎながら中城城趾の歴史を見守っ
てきた。
石ころだらけの痩せた土地でも一握りの土があれば根付き花を咲かせるこ
とから、わたしたちに逞しさと力強さを与えてくれる。最盛期の12月には城
内に咲く数万本の花が観光客を迎え入れる」
ーーーー以上は、入場券売り場で販売している小冊子『世界遺産中城城趾』
(中城村・北中城村文化財案内人サークル「グスクの会」発行)からの引用文
である。
この文のとおり、中城城趾内のいたるところツワブキの明るい黄色の花が
開花し訪れるものを幸せな気分で満たしてくれる。
中城城趾のツワブキの花の光景は他の場所では決して見ることができない
ほど素晴らしい。
昨年末は「中城城ツワブキまつり」(2017年は12月24日だった)をはさん
で4回、年明けては2回の計6回城趾を訪れツワブキの花を撮り歩いた。
全体的には満開に近い。場所によって咲き具合に違いがありまだ8分咲き
ほどのところもある。
中城城趾のツワブキの花を撮り歩く
城跡の見学には順路が設定されている。順路沿いに咲き誇っているツワブキ
の花を撮る。
掲載した写真は昨年末撮ったものも掲載している。そのため花の咲き具合
や天気の情況による色合いの違いがある。
城趾の見学順路。
図は前記の小冊子から借用した。赤く埋められた矢印のある場所が出発点。
正門は西の方にある(首里の方角に正門は開いている)。
良く写真や絵はがきなどで見る湾曲した美しい城壁と石門は裏門側
である。
入場料は大人の場合一人400円。子供はもっと安くなる。
無料カートが常に待機している。
正門前までかなりの距離。約250~300メートルほどある。
希望すれば無料カートが正門まで送ってくれる。
ボランティアの案内人もいる。無料のようだ。マンツーマンで可能。
カート待機場前の花園。
ツワブキの花の中にバラのピンクの花やアカバナーの紅い花が目立つ。
ツワブキの花を撮りたいならカートを利用せず歩くことを勧める。
正門近くまで見事に咲いたツワブキの花に歩く疲れも忘れる。
デイゴの木の周りのツワブキ。昨年撮ったものでまだ蕾が多かった。
上の写真と同じ場所。数日後の開花の様子。
デイゴの木を背後に離れたツワブキの花の位置からローアングルで。
昨年の第8回中城城ツワブキまつり」(12月24日)の様子
落葉もなく年中緑で花を咲かせないデイゴも多くなった。
写真のこのデイゴは春には多くの紅い花を咲かせるという。
イメージが浮ぶ。紅い花咲くデイゴの木の下を走るカート。
これは絵になる。デイゴの花の頃にも来てみたくなる。
縦の構図でデイゴを強調した。
正門までツワブキの後方は雑木林。
正門まで城趾側路傍はツワブキの花が咲き乱れている。
雑木林のやや暗い背景は黄色のツワブキ花をさらに目立たせてくれる。
後方には幹の大きな木も数本生えている。これらの大きな幹を背景に
するといろいろ美しい構図の絵がとれる。
木の大きな幹とツワブキの花。
茶褐色と黄色そして緑色の3色だけの画面の絵だけど夢中になる。
城趾内ではこうはいかない。
ツワブキ(石蕗)は海岸の岩陰や、この中城城跡のカート路のように山地の
路傍にかけて多い。名護以北の東海岸側山手の国道沿い半日陰の場所に
群生している場所もある。
キク科の常緑多年生草木。葉は大きく光沢があり、和名のツワブキの由来は
ツヤ(光沢)ブキから転化したなど諸説あるようだ。
ツワブキの変種にリュウキュウツワブキがある。ヤンバルの山中を歩いてい
た頃、いわゆるツワブキと葉の形がちがうものを見かけたが、それがリュウ
キュウツワブキだったかも知れない。
リュウキュウツワブキについてはネットで検索すれば写真やツワブキとの
相違などが出てくる。
撮った日は暖かかった。蝶も花の周りを飛びまわり吸蜜している。
アサギマダラ?
集団で吸蜜中の蝶。
このツワブキの花だけは何故か多くの蝶が群がっていた。
図鑑を調べるとリュウキュウアサギマダラに似ている。吸蜜に夢中なのか
20センチほどの距離でカメラを向けても逃げず長いこと吸蜜している。
翅は広げたと思うとすぐ閉じる。
よく見るとミツバチ3匹、蝶とともに吸蜜している。
青い翅を開いた蝶は別の種類。じっとしておらずせわしく飛び回り撮る
のは難しかった。
「中城城ツワブキまつり」の数日前(昨年末)に撮ったもの。蕾が多い。
水が枯れた側溝に降り道路に仰向けに寝てワイドに撮る。
これも昨年末。「中城城ツワブキまつり」の前の情景。
まだ幼いツワブキ。自生で増えていく。
葉は根茎はなく長い柄のある根生葉(土の中の根から直接生える葉)。
ずうずしくも二つのソテツの間に分け入り、ソテツの葉陰で花を咲かせていた。
ツワブキには薬効もあるという。
今は亡き母が大事にしていた表紙などがとれたぼろぼろの民間療法の変
色した本には次のようなことが書いてある。
「①打身で内出血して腫れ、痛むときには、生の葉を火であぶってもんで、
やわらかくしてから患部にはると、腫れも痛みのとれます。うるしかぶれ、毒
虫にささたときもよい」 ーーーこれは手軽ですぐに出来そうだ。
少年の頃、足に怪我をした時に似たようなことを芋の葉で行なった。芋の葉
の場合、火であぶるのではなくて、もっと感嘆に葉を手でもんでつぶしこれを
傷口に当てた。落ち着きがない性格でよく怪我をした。芋の葉の自己治療は
効果があった。
ツワブキのその他の薬効「②痔核のときには、葉を水でせんじて洗うとよい。
③魚の中毒には、葉をせんじてのみます」(『家庭医学新書』ーー破損で編著
者は分らないが大学、病院や研究所の医学博士などの肩書きをもった執筆
者名多数、「まえがき」の端が破れた下欄に記されている。出版社は「まえが
き」からすると「主婦の友社」か。
Wikipediaには「葉柄が食用になる。(奄美大島のように)沖縄でも豚ととも
に煮物にして食べる」とある。その他いろいろツワブキの食用について説明
がある。
(追)沖縄タイムス発行のライフサポートマガジン『らくら』(2018,2・3月号)
の「食べてみよう沖縄の野草・薬草(第4回)」にツワブキを材料にした
料理の作り方が掲載されている。許可を得て次に写真を掲載した。
正門までのカートロードの路傍のツワブキを撮っていると城趾内の
ツワブキを見ることを忘れてしまいそうになる。
安心して撮るにはバッテリーとメモリーの予備は必要。
訪れる日増しに開花状況が素晴らしくなっている。
両サイドとも開花した花の道をカートが戻る。
1月3日に撮った。右側は花壇になっている。この花壇のツワブキが2日前
より開花し両サイドを花が色彩っていた。カートが到来するのを待って撮る。
これも1月3日に撮影。次の写真2枚も同じ。来るたびに花は増える。
正門付近のツワブキ
正門は城の西側にある。
入場券売場前から城址の正門までは250~300メートルほど。
無料カートを降りて城跡内に向かう観光客。
正面の舗装道路は「西の郭」をとおり「二の郭」に至る管理用道路。
中城城趾の世界遺産登録の石碑。
2000年11月27日~12月26日の期間に、オーストラリアのケアンズで開催
された第24回世界遺産委員会で「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として
日本で11件目に世界遺産に登録。
写真画面の左上は本来の正門への石畳の階段がある。現在は通行止め。
城跡内に入る見学者は右端のツワブキの横から細い坂径を上がる。
昔を偲ばせる正門への石畳の階段。現在、この階段区域は立入禁止。
正門への石畳階段の近くから正門前あたりを撮る。
世界遺産登録の石碑の左側に咲くツワブキ。
ツワブキの花の横の坂を上がると中城湾が展望できる広場に出る。
城跡の正門へはこの広場から行く。
広場から琉球石灰岩の岩山の崖の上に「南の郭」の城壁が見える。
ペリー艦隊の大琉球島奥地探検隊の一行が1853年5月31日に中城城跡
に出くわしたときに最初に見たのがこの断崖と城壁だった。
「我々の一行の旅行〔探検〕(火曜日)の正午頃、我々は・・・石灰岩から成る、
或る山背の頂上を旅行していた。その両側には、垂直の絶壁が下方に下りて
いっていた。私〔ジョウンズ隊長〕は一行の先頭を歩いていたが、やがて、或る
物が私の前に現れた。それを、私は最初自分の進む道を遮っている自然岩と
思ったが、やがてそれの頂きの方に窓のような、或いはそのような開き口みた
いに見える物を見た。もっと近づいて見て、大へん驚いたことには、それは荒
廃した中城古城であることが分った。」 。(『ペリー提督沖縄訪問記』外間政章
訳、昭和50年、球陽堂書房より。以下探検隊に関する絵図・引用文の出所
は同じ)
城壁をよく見ると隊長が開き口に見えたのぞき穴がある。
この崖下にはカンジャーガマ(鍛冶屋跡)がある。現在立入禁止。
広場の端の方から見た南の郭の城壁。
崖下の窪んだ部分がカンジャーガマ(鍛冶屋跡)。この場所で「秘密で刀や
武具を大量に生産していたので、護佐丸を討つ口実を阿麻和利に与えて
しまった」という。
ーーー「護佐丸は中城を増築し。城内の鍛冶屋で武器を増産して、首里城
を攻める準備をしている。」と阿麻和利が尚泰久王に讒言した・・。「護佐丸
は舅であり、譜代の重臣であり信じられないことだ。」と尚泰久王が言うと、
「お疑いであれば調べてみればわかることです。」と阿麻和利・・・。
尚泰久王が密偵に中城を探らせてみると、確かに中城城内では長男中城
若按司の指揮のもと日夜軍事訓練が行われており、本丸裏の鍛冶屋では
国吉之比屋によって多くの武器が作られているとの情報であった。尚泰久王
が中城城内に送った密偵は、内間金丸配下の西原之比屋であったという。
事実、中城の三の郭や北の郭などは護佐丸が増築したものであるといわれ
ていて、必要以上に武装化された城砦である。
一四五八(長禄二)年、尚泰久王は阿麻和利に護佐丸討伐の許可を与え、旧
歴八月十五日の夜、王府軍は中城城を攻めた。その時、中城城内では月見
の宴が開かれていた。その宴の最中に突然王府軍が攻め上がって来た・・・。
ーーーー伊敷 賢著『琉球王国の真実』沖縄ブックサービス、2013)より
広場の空にリュウキュウツバメが辺りを周回していた。
翼をひろげ気流に乗り舞い上がる。
リュウキュウツバメとの距離感がつかみにくい。ピントの設定を何度か
やり直す。どうにか形を捕らえるほどには撮れた。
ツバメは二羽。つがいのようだ。
正門付近へ向かう観光客。
その前に見える写真上の城壁の穴は「三眼銃(ヒヤー)などの火器を
使用するための狭間(はざま)」(『世界遺産中城城跡』より)。
なお、単に「のぞき穴」と記している資料もある。
正門へ向かう家族連れ。
中城城史跡の碑を撮っている観光客。
中城城跡の石碑があるためだろう。この場所で記念写真を撮る観光客は多い。
碑の周りにツワブキの花がもっと増えたらもっと素晴らしい写真が撮れることだろう。
「南の郭」の城壁とツワブキの花をローアングルから。
正門へ上る本来の石階段付近から撮る。
昔の石階段区域は立入禁止なので、限界ぎりぎりでツワブキの花を
どうにか大きく前景に入れることができた。
正門に向かって左側の城壁の上で休むイソヒヨドリ(雄)。ここがお気に入り
のようだ。この場所でいつも見かける。
中城城の正門。
正門の向こうに見えるのは護佐丸が口上を述べたとされる一の郭の外壁。
「1458年旧歴8月15日の夜明け前、正門(大手門)内側に騎馬武者姿で立
つ阿摩和利と一の郭の上に立つ護佐丸が、互いに口上を述べ合ったと『毛
氏(もううじ)先祖由来記』では伝えている」
ーーーこれは『世界遺産中城城跡』から引用。
この小冊子には『毛氏先祖由来記』の一部が抜き書きされている。
抜き書きの文は「この夜は中秋の名月で、護佐丸公は夜遅くまで月を賞され
ていたが、にわかに鼓角の音天に響き・・・・」と始まる。続きは小冊子を購入
して読むといい。定価は1200+税。中城城跡や護佐丸に関連した事柄の
内容も豊富で楽しいガイドブックである。
『異本毛姓由来記』というものもあるようだ。
護佐丸を討った阿麻和利。彼もまもなく王府軍に討伐される。
「尚泰久王は、目の上のこぶであった舅の中城按司護佐丸を、阿麻和利を利
用して滅ぼした後、今度は鬼大城を利用して、振興勢力である阿麻和利率い
る勝連連合軍を滅ぼしたというのが歴史研究家の定説となっている。」(『琉球
王国の真実』伊敷 賢著)
「西の郭」のツワブキ
図から見ると西の郭は細長い。その一部で西の郭に入った辺り(正門付近)
にツワブキが咲いている。
同じカ所のツワブキを幾つかの位置から撮った。
西の郭内側から正門前を望む。門の石壁と敷石の隙間に自生している
ツワブキの花。
引き抜かずに育てて管理している管理事務所のツワブキに対する愛情が
うかがえる。
正門から入ると「西の郭」がある。左側には「南の郭」へ上がる階段がある。
1853年5月26日那覇の港に錨を下ろしたペリー提督率いる米国艦隊。
その大琉球島奥地探検隊は5月30日(月曜日)那覇を出発。その2日目、
5月31日(火曜日)中城城趾にやってきた。
絵は探検隊同行の画家ヴィルヘルム・ハイネによる。「西の郭」の正門付近
を描いたもの(すぐ上の写真と同じ場所)。
左端に見える水兵帽の乗組員は二人一組で図からは分かり
にくいがロープを使用し城趾(城壁の高さ、正門からの距離)を測量している。
画の中央のアーチのない門が正門。左上は「南の郭」への階段。「南の郭」
の門のアーチは先の大戦で破壊されて現在はない。右手の大きな木はアカ
ギ(訳者の注)。
画には右下端に見学にきたらしき老人と子供が見える。近くの間切りの士族
だろうか。
ペリー提督は探検隊を三隊編成している。海から東海岸と西海岸を調査する
二隊。もう一隊は奥地の調査隊。
奥地探検隊は12人(将校4,艦船の乗組員4,支那人苦力4)。
将校クラスは以下のとおり。
隊長は艦隊付き従軍牧師ジョージ・ジョウンズ。ジョウンズは天文学、植物学、
海洋学、動物学に通じていたという。
探検の記録担当のベイヤード・テイラー(世界旅行家、文筆家)。探検隊は中
城城にくる1時間弱前に現中城村新垣にある岩山(探検隊は「旗岩」と名付け
た)に登り頂上で星条旗を翻しているが、旗を翻したのがテイラーである。
なお、テイラーは絵も描いたという。
画家のヴィルヘルム・ハイネ。スケッチの早さと写実性は優れていたという。
あと外科医補のライナー博士の4名である。
ついでに艦船の乗組員の名を訪問記から拾う。テリーとミッチェル。この2人は
隊の先頭を進む。旗を持つ担当のテリー。荷物の後方について進むスミスと
デヴィスの4人。将校、乗組員全員が銃を所持している。
探検隊の任務は奥地を踏査し、その動物、鉱物、植物の蒐集。特に島の地質
の観察(石炭を含有している地質か)であった。
期間は6日間。「東海岸の方へ島を横切り、北の方に海岸線を辿り、可能な
限り遠くまで行程を進め、内地を通って帰れ」がペリー提督の命令。
琉球側から案内人として役人3人。
「長い白いあごひげを伸ばした堂々たる風采」の老ペーチン、その部下の「黒い
あごひげを生やし、浅黒い顔色」の若い役人2人の計3人が同行。老ペーチンの
名は喜屋武親雲上。支那語の読み書きができたようだ。
なお、那覇から首里に向かう途中、支那人の苦力から荷物が多くて持てない押
し潰されそうだと手真似され、隊長が老ペーチンにお願いし琉球人の苦力を4人
を補充している。
支那人の苦力は「役に立たない。欺瞞に満ちた奴ら」。疲れた風を装う。琉球の
人夫は「忍耐、上機嫌、持久力」で支那人苦力を赤面させたと、訪問記の後の
方でテイラーは記している。
琉球側の案内をつけたのは当時波之上に居住していた宣教師ベッテルハイム
(あの「波之上の眼鏡(ナンミーのガンチョウ)」の助言による。ベッテルハイム自
身が常に監視された生活を強いられていた。
「護衛か間諜みたいなようなものをつけないでは、遠方へ行くのは許されないこ
とは明らかであったのでベッテルハイム博士は、適当な役人が案内人として付い
ていくように願うため使いをやった」と訪問記にはある。
上記の外に琉球の3人の役人の従者或いは部下と思われる者たち12人程
が後についている。・・・とも記されている。この従者たちは、島の一地方(間
切)から他の地方に過ぎていく時に交代させられたようだ。
老ペーチンは疲れると籠を利用したりしている。そのときは探検隊の監視は2
人の部下が行う。
この絵は探検隊が描いた琉球の百姓。
行き着く先々で交代した人夫たちはこのような姿をしていたのだろう。
「・・行くこと更にニ里で、道は多少西の方にまがり、我々は、松林から高く
聳えている一つの不思議な岩に出会った。その岩の頂上は、非常に尖っ
てぎざぎざになっていた。それは中生代の石灰岩で出来、風雨に晒されて
蜂の巣の如くなっていたので、それは実によく目につく、絵のような物体で
あった。
ハイネ氏が停まってそれを写生し、ジョウンズ氏がそれの成分を調べてい
る間に、私(テイラー)はその天辺によじ登ったが、そこは非常に尖ってい
たので、すわり心地の悪い所であった。頂上は、この島の、この地域に於け
る最高の峰であり、そしてそこからはかなりの範囲に及ぶ両方の海岸を包
含する光景が見下ろされたので、私は旗を持ってくるように命じ、その岩の
天辺から旗を翻した。その間、兵隊たちは麓の方から礼砲を発射し、三度
歓呼の声をあげて、これを祝した。我々はそれに「旗岩」(Banner Rock)
という名称を与えた。
島人達は、我々の所為をどう理解していいか分らないで傍観していた。しか
し彼らはそのために少しも騒ぐようなことはなかった」
テイラーは岩の頂上からの眺めなどについて次のように記述している。
「山水の景は非常に美しく、変化に富み、丘陵は全部松林の衣をまとってい
た。岩の上には、我が国(米国)の温室にあるような、満開した「さくららん」
や、華麗な深紅の仏桑花(むくげ)や、また大きな黄色い花をつけた一種の
ぜにあおいを私は見つけた」
現在の旗岩。
地元ではターチ岩(二つの岩)またはターチャー岩と呼ぶ。
写真からは二つの岩に見えるが、実際は三つの岩である。三つ目
は角度の関係で右側の大岩に隠れて見えない。
岩の裂け目の下に入ると三つの岩になっているのが分る。ハイネの
絵でも三つの岩が見える。
ハイネの絵のように三つの岩が見えるように撮りたかったが、広場の
西側は雑木林になっており不可能だった。
中城村は平成9年(1997年)、この岩を「ペリーの旗立岩」という名称で史
跡指定している。近くまで車で行ける。駐車した場所から歩いて2~3分。
旗岩から中城城跡までの距離は約1.8キロほど。「歴史の道」(ハンタ道)
を歩いて50分程。
この後、奥地探検隊は峰の頂上に沿うて行進を続け・・・そして中城城跡
と遭遇する。
「バナー・ロック(旗岩」を出発して1時間とたたないうちに、我々は一つの
古代要塞を発見して驚いた。」(『ペリー提督沖縄訪問記』外間政章訳)
ペリーの探検隊の指揮官ジョウンズが作成した中城城趾の平面図。
便宜上、図は上下逆にした(見学順路の図と照らし合わせて見やすいため)。
なお、探検隊の報告書は中城城について「その石造建築は称賛すべき
構造のものであった」と記している。
「南の郭」の階段(門近く)上から蕾のついたツワブキ越しに正門を見る。
正門から西の郭に入る年配の男性。写真に撮ったことを話すと「いいですよ。
カレンダーに使ってもいいですよ」と笑いながら了解してくれた。なかなか
冗談が分る方だ。嬉しくなる。
人物を撮ることはほとんどない。ただ風景の一部に組み入れて撮る場合は
ある。今回はツワブキの中の観光地中城城趾の雰囲気のある絵にしたい
ために意図的に多く人物を組み込んだ。
上の写真と同じ位置から数日前に撮ったもの。まだ蕾が多かった。
蕾ばかりの時は、西の郭はツワブキの数も少ないので蕾が多い頃は
殺風景な感じがした。
ペーリーの探検隊が残したハイネの絵の場所だと教えられなければ
そのまま感慨も何もなく通り過ぎてしまいそうになる。
正門と南の郭の城壁の間の窪みのツワブキ。ここにもっとツワブキが増え
て花咲かすようになるといい場所になるだろう。
南の郭に入る見学者を画面の右上に小さく組み込み、上の写真の窪み
に咲いているツワブキの花陰から見上げて撮る。
同じ場所。さらに開花していた。
「南の郭」のツワブキ
「南の郭」には(1)久高島を遥拝する御嶽と(2)首里への遙拝拝所、そして
(3)雨乞いの御嶽の3つの拝所がある聖域の郭。
南の郭への階段口。
ぺりー探検隊のハイネ画で描かれている左上のアーチ門(門の前に人物
が二人立っている)である。今はアーチはない。アーチをなしていた石材の
一部がこの門の階段前の脇に置かれている。無造作に置かれているので
気を付けないと見過ごしてしまう。
二人の見学客の左側に立っている石塔(霊石)のある場所は「雨乞ノ御イベ」。
同じく右側の石塔(霊石)のある場所は「小城(おぐすく)ノ御イベ」で、神の島
久高島を遙拝する御獄(うたき)。
手前の右の石造物は祠(ほこら)の屋根。「御當蔵火神(おとうくらひのかん)」
で通称首里遙拝所というそうだ。
見学客が向かっている門の向こうは「一の郭」になっている。
「イベ」とは何のことだろうか?沖縄古語大辞典(角川書店)を調べると次の説
明があった。
「御獄の神の在所。御獄の奥まった所にあり、最も聖なる所。また、神名。
『由来記』には〈~イベ〉あるいは〈~御イベ〉は御獄名ではなく神名〉としてあが
っている。〈威部〉は宛字で、〈いべ〉は〈いむべ〉(忌部)の転化したものと言われ
ている。
「霊石を中心に御獄がある場合は、その石が〈イベ〉で、これを犯すことはタブー
である。拝むのは女性であった」
沖縄は城の中に何故拝所・御獄があるのか?城(しろ)とグスクとはどうちがう
のか?
このことについては仲松弥秀(なかまつやしゅう)の『神と村』(梟ふくろう社、
1990)、『うるま島の古層』(梟ふくろう社、1993)を読むと理解できる。
ペリーの探検隊作成の平面図では南の郭のそれぞれの拝所が区分
されていて分りやすい。
(1)御當蔵火神 首里の方角に向いている。
(2)小城ノ御イベ 久高島の方角に向いている。
(3)雨乞ノ御イベ
卸當蔵火神(首里遙拝所)。久高島遙拝所の前付近から撮る。
この首里遙拝所後方の城壁に、広場の方から見える「のぞき穴」が2つある。
ここ南の郭にはいつも一羽の野鳥がいる。イソヒヨドリの雌だと後で知った。
ツワブキの花に止まる昆虫(南の郭ではミツバチしか見かけなかった)を
餌に狙っている。
花から1メートルほど離れた場所からすばやく花に飛びつき捕獲する。
餌取りに一生懸命。人影が近づいても遠く逃げ去ることはない。すぐ近くで
再び餌を捕っている。
環境的に見ていい餌狩場だ。花の高さと拝所を囲む石垣が同じ高さ。花と
の距離もいい。
ツワブキの花を訪れるミツバチは多い。
しかし、南の郭では野鳥の餌食になる。
久高島遙拝所(「小城ノ卸イベ」)
久高島遙拝所の中に自生したツワブキ。ツワブキの後ろは霊石。
ここのツワブキも引き抜かれることなくそのまま育ち花を咲かせている。
なお、知念村にある琉球王国最高の男子禁制の聖地であった斎場御獄
(せーふあうたき)にも久高島の遙拝所がある。
「雨乞ノ御イベ」のある区域から一の郭へ通じる門の方向を撮った。
野鳥の吸蜜ではない。
ツワブキの花のミツバチを捕獲している瞬間の野鳥である。
花に止まって捕えているように見えるがそうではない。あっという
一瞬で捕獲し地上に再び降りる。その間1~2秒間の素早さ。
後ろ姿でしか撮ることができなかった。
ツワブキは1メートルほどの高さ。その下の地面から上の花に
パッと飛びつく。
ツワブキの花にピントを合わせておき連写で撮影。
「雨乞ノ卸イベ」の区域花を咲かせたツワブキ。
写真の後方は正門方面からも見える一の郭の外壁。護佐丸が来襲してきた
阿麻和利と口上を述べ合ったという壁だというので、ツワブキの花と一緒に
撮ってみた。
一の郭へのアーチ門。
「一の郭」のツワブキ
一の郭(本丸)にはツワブキは少ない。
総じて城壁で四方囲まれた郭内にはツワブキは少ない。しかし構図の工夫
しだいでいくつものいい絵が撮れた。
奥のアーチ門は一の郭と南の郭とをつなぐ門。
整然と並べ置かれた石(琉球石灰岩)は修復のため積み直しを待つ石。
このすべての石には番号がが記さたシールが貼られている。
修復を要する城壁の石を取り外すときに番号をふり、写真撮影後、記録に
残し解体するという。
なお、城壁の保存修復事業は1995年度から国庫補助事業で行なわれて
いるとのこと。
小冊子『世界遺産中城城趾』には修復の様子の写真と説明がある。なお、
城趾に関する専門的な説明はこの冊子を参考にしている。
南側の門の方から北の門の方角を望む。
前方の数段高くなった部分(見学客がいるところ)が正殿があった場所。ここに
琉球王朝時代の間切番所、明治以降は村役場があったという。
郭内の様子について『ペリ提督沖縄訪問記』には次の報告が記されている。
「アーチ型の門〔おそらく西の郭から南の郭へ至る門・・引用者の注。以下
同じ〕を通り抜けて、道は樹木に覆われた台地に通じていた。ここには記念
碑に似た一建造物があった〔拝所のことか?〕。石段を登ると、我々はもう
一つの門〔南の郭から一の郭への門?〕に達した。その門と、広々とした入り
口を通り過ぎ、要塞(城のこと)の内部に入った。
その場所は鬱蒼とした樹林が占めていた。そして城内のもっと向こうの端には、
立派な外観をした一私邸〔番所のこと?〕があった。一行中のペーチンは既に
そこに着いていた。
そしてこの家の主人が(一行中の支那人たちは彼を「日本の領事」というたが)
我々に、中に入るように、うやうやしく招いた。その日は蒸し暑い日であった。
琉球お茶の二、三杯心地よい飲み物であった」
この後、探検隊一行は北の郭方面へ出て休息と昼食をとっている。
ジョウンズ隊長はこの昼食が準備されている間に、城跡の大体の図面を描き
兵隊たちが測量をしたという。
ペーチンというのは案内人として部下二人と探検隊についていた喜屋武親雲上。
丁寧にもてなし対応しながらも探検隊一行の監視する役目もあった。
中央辺りの東側(「観月台」ーー阿麻和利が攻めてきたときここで月見の宴を
していたか)城壁近くに生えているツワブキ。
このツワブキをいろいろなアングルから撮る。後ろはフクギの木。
縦の構図。
城壁内側の石段の上からの構図。
近くにより花を付けた茎が左右の方向に分かれた様子を強調。
横からの日差しに照らされた黄色い花が輝やく。
縦構図にして後方に三の郭との間のアーチ門を入れた。
見学客と案内のガイドボランティアを遠くに配した。
ツワブキの花にかなり接近し熱心に撮影している観光客。
吸蜜しているミツバチを撮影していたのだろう。
花のついた茎はかなり長い。80センチ前後。
後ろに回ると逆光の光景が美しかった。
上から見下ろし、フクギの大きな幹の左右に輝く花を配した構図にする。
フクギの幹の影、石段の影そしてツワブキの花の影が映るその上に
黄色いツワブキの花が美しいかった。
すぐに構図がうかんだ。ツワブキの花を画面上部に寄せ縦構図で切取る。
これは気にいった一枚。
フクギを葉の茂みまで見えるようにした。後方の灰色の城壁の湾曲した
流れの形状で画面全体のバランスと配色をつくった。
一の郭内にはフクギの木が三本生えていた。郭内にフクギがあるのは
この郭だけだった。
ここでもリュウキュウツバメが飛んでいる。
正門前広場、一の郭そして二の郭あたりの上空を周回するよう
に飛び回っていた。
アップにするとリュウキュウツバメの特徴である首周りから胸に
かけての紅い色がどうにか分る。
沖縄で冬に見られるのは留鳥のリュウキュウツバメだけという。
城郭内では飛んでいるツバメは撮りにくい。城壁の上や下から
突然現れるのでカメラを向けるのが間に合わない。
背景も空だけ。ようやく撮れてもピントを合わしぬくい大空に小さい
影でしか撮れないので夢中にはなれない。
近くの集落でもリュウキュウツバメを見た。リュウキュウツバメは
中城村の空が好きなようだ。
なお、渡りのツバメとリュウキュウツバメについては、
「ツバメがやってきた」と「飛ぶリュウキュウツバメを撮る」のタイトル
で掲載している。
城の内側の石壁に見つけた幼いツワブキ。
土がない石壁には人手の植栽は難しいようだ。城趾は自生したツワブキが逞しく
根付くのを見守る。
一の郭の北端の東側にある「中森ノ御イベ(なかもりのおいべ)」。通称は
チゲーウタキ。グスク全体を守護する神を祀る拝所。8つある城内の拝所
のなかで最も重要な拝所だったという。
このチゲーウタキの入り口近く、桜の木の横にツワブキの花が咲いている。
城壁の上(武者走り)から撮る。
同じく城壁の上(武者走り)の別のアングルから。
二の郭のツワブキ
二の郭も城壁に囲まれた広場になっているのでツワブキは少ない。
二の郭。東側の城壁越しにアーチ門のある南側の内壁を撮る(門の向こう
側は一の郭)。
城壁の武者走り以外には上れないので、城跡内で城壁をメインにした写真
に撮るのは難しい。横向きに身を乗り出した窮屈な姿勢で撮った。
夕焼け空と城壁の情景を撮りたくなる。
城壁の上から中城湾の沖に火力発電所の海中輸送橋を
望む。日差しに光る海に輸送橋の幾何学的な形状が美し
い光景だった。
二の郭のシライトミノ御イベ(御獄)の石垣に生えたワブキ。最初見たときは、
葉が疲れたようにかなりしおれていたが、今は元気になっていた。花も多く
咲いている。
15メートルほど離れてたアーチ門をバックにして撮る。城壁の影の傾きも
ちょうどいい具合だった。
ツワブキの花房を大きく前面に置き、一の郭から二の郭へアーチ門の階段
を降りてくる観光客を撮る。
顔が写っている状態を見せると快く了解してくれた。
アーチ門のすぐ下にもツワブキの花が咲いている。
二の郭のツワブキは4株しかない。一つだけ撮らないではかわいそうだ。
このツワブキも仲間を増やしいつか大物になるだろう。
二の郭にある「シライトミノ御イベ(御獄)
中城湾に入る船の航海安全と二の郭に住む人々を守護する神が
祀られているという。
二の郭の北端。何の記念碑だろうか
北端にはツワブキはないので城壁の上を歩いていたため、何の記念碑か
確認していない。
(追)後日、確認したら「忠魂碑」だった。
記念碑の後方で見かけた。ちょっと目が引かれたので撮っておいた。
西の郭 北端のツワブキ
見学順路は西の郭から西の郭の北端へ進む。
昔の石階段の上に設置された木製の見学用階段を下りる。
画面奥の崩壊防止の柵が設置された門は北の郭への通路。
二の郭の城壁の上から西の郭北端を見下ろす。
郭内では樹木が多く。樹木が日陰をつくり落ち着いた雰囲気のある場所。
木の階段を降りてツワブキの咲く岩の横を抜けて門の方へ向かう。
階段を降りてくる外国からの観光客。
単語を二つ三つ並べた下手な英語で撮影のOKを得る。
木の幹の縦の直線とツワブキの花とがマッチしいい構図の絵になる。
二の郭の城壁が築かれた岩盤の岩壁に咲くツワブキ。
小ぶりだが何故か気をひかれた。アングルを変えて何枚か撮る。
階段を下った岩陰を回る路側から二の郭の城壁側を撮る。
北の郭への出口付近。
上の写真(北の郭への出口付近)の石垣の上の方から逆方向を撮る。
二の郭から木の階段を下りてツワブキの咲く岩陰を曲がり、北の郭へ出る
門の前になる。
西の郭の北端のさらに下の区域へは立入禁止となっている。写真中央上に
赤い小さな立て看板が見える。
以上の写真を見てきて、ペリー探検隊の平面図で確認すると場所が
イメージしやすいのではないか。
現在の見学コースでは立ち入り禁止になっている部分との位置関係
が掴める。
北の郭のツワブキ
三の郭への石の階段を上がる感光客をツワブキの陰から撮る。
ツワブキに日差しが照る時間帯や階段を上がりきったところに空をバックに
立つ逆光の人物の陰も絵になる。
上の写真と同じツワブキの花を、三の郭へ上がる階段の途中から見下
ろすように撮る。
中城城趾のツワブキは、北の郭のこの場所の写真がカレンダーなどで知られ
ている。
昨年度の第8回中城城ツワブキまつりのチラシにもここの美しい写真が使用
されている。
「城趾とツワブキ」のイメージに至極マッチしているからであろう。
上と同じ位置から。今度は花を大きく画面に入れた。
後方は裏門。
琉球石灰岩の岩と城壁。岩の上は三の郭の外壁。
三の郭の外壁。
北の郭にある物見台。立入禁止で上には登れない。
裏門の近くにある。
北の郭を裏門へ向かうペリー提督派遣の奥地探検隊。ハイネによる画。
多人数だが半分以上は琉球側の人たちである。
裏門に向かって右側に三の郭の城壁と石の階段。手前右側の高い城壁は
二の郭の外壁。裏門の左手が物見台(ウフガーの上に茂る樹木の上の方)。
探検隊は一行の案内である老ペーチン(喜屋武親雲上)と二人の部下が常に
監視を続けているが、そのことについての報告書の記述。
「我々は、我々に対して行われている(この島の)一定した間諜組織の兆候
を既に見抜いていた。チャン・ユーエン[喜屋武親雲上のこと]と彼の二人の
部下の役人は、この旅行中ずっと我々についていくよう命じられていた。
一方彼らの十二人程度の助手達は、我々が島の一地方から他の地方に過
ぎ行く時に交代させられた。
彼らが我々を見張りしている用心に勝る程の用心は他になかった。我々は我
々の部下の人数だけ多くの分隊に分かれることが出来たであろうが、そんな
にしても我々一人一人には土人の護衛者が絶えずついて来るのであろう。
我々は彼らを疲れさすことも出来なかったが、彼らから逃げ去ることも出来な
かった。偶々我々が急に進路を変えた時でも我々は尚、我々の前に彼らを発
見した。こういうことは、猜疑深い、排外制度の結果であるけれども、しかも彼ら
は、我々に対する尊敬の念からそうするのだとの様子を、うまく示したのである」
「我々は、彼(喜屋武ペーチン)と同僚達が、我々の行動の記録をずっとつけて
いたこと、そして既に長さ数ヤードの一巻きの紙を彼らの言葉(琉球語)で埋め
ていることがわかった」(『ペリー提督沖縄訪問記』より)
琉球滞在中、やがてペリー側は、いろいろと琉球側が置かれている事情を知る
ようになる。
・・・「もし多くの日本の官吏やスパイ共が居なかったら、外国の訪問者達に対す
る琉球人の友誼感は、多分もっとあらわな表示がなされていたことだろうに。こう
いうスパイ共は、発生する全ゆる事件に注意し、そしてそれに日本帝国政府に
報告するために、また、米人に対し、多少でも親愛の情を示す者には、他日責任
を取らすために、絶えず監視するのである。」
ツワブキの花からさらに脱線して、
この奥地探検隊一行は大琉球島の奥地をどこまで行ったのか知りたいところ。
ジョウンズ隊長による「ペリー奥地探検隊旅行記総括」で分りやすい。
第一日目 1853年5月30日(月)
那覇発。泊、崇元寺、首里中山門、首里城附近、弁ヶ岳等を
通過。西原村の CAMP PERRY で野営。
第二日目 5月31日(火)
CAMP PERRY 発。中城村新垣部落の「旗岩」、中城城を
測量し、具志川を経て石川に着く。同番所に宿泊。
第三日目 6月1日(水)
石川発。金武観音堂を見る。金武の番所に宿泊。
第四日目 6月2日(木)
金武発。漢那より西海岸の名嘉真に出る。恩納着。同番所に
宿泊。
第五日目 6月3日(金)
恩納村発。山田、喜納、比謝橋通過。PIKO(北谷)に着く。
同番所に宿泊。
第六日目 6月4日(土)
PIKO(北谷)発。牧港、天久、泊通過。午後2時帰艦。
4日目に恩納村の名嘉真で折り返し那覇に向かっている。
(追)
CAMP PERRY とは探検隊が夜営した場所にペリー提督の名前をつけた
呼称。ハイネによる夜営の準備をしている絵(次の絵)がある。
絵の後方の島影は知念半島。
この西原の夜営地に関する報告も面白い。さらにツワブキからは長い脱線に
なってしまうが『訪問記』から引用する。
「我々が辿って来た道は、稲田の中を通っており、非常に泥深かった。灌漑
に用いる一つの小川〔現在の小波津川?〕の橋の上に、立ち止まって休んで
いると、我々の老案内人は、彼の二人の部下と共にやって来て、艦に帰るべ
き時間であることを手真似で我々に仄めかした。
日はすぐ暮れるし、寝る所がないとのことであった。我々一行は、帰艦しない
で北に進むつもりであり、五、六日は艦には戻らないだろうと答えた(これも手
真似で)。彼らは大いに驚いたらしく、また多少困ったように見えた。というのは
我々を見失わないのが彼らのつとめの一つであったからである。
この老人は我々に後れをとらないように急いだため。泥道に滑って、着物の
後ろを汚したが、彼はこの出来事を心から笑った。そして遂に彼の前に横たわ
る長途の徒歩旅行を予想してあきらめるようになった。・・・・・
「五時半頃、湾を見下ろす或る丘の上に達したので、且つその丘の頂上には、
若い松の木に囲まれた広場があったので、其処に野営することにした。
我々が木を切り倒すことに、沖縄人〔訳のママ。英語ではThe peopleとなって
いる〕が反対したので、我々は、苦力共が用いた竹棒を結び合わせて、テント用
の棒を作った。
我々の下方の丘の斜面の上に、一つの村落があった。我々は、我々の欲しい
ものを、島の役人達に分らせる困難のため、多少暇取ったが、鶏四羽、卵四十
個、薪二束を得た。
我が一行中の支那人の一人、「アシン」は、琉球語を話すと公言したが、間もな
く、この男が惨めにも無能であることがわかった。しかしこの支那人の同僚は、
英語は話さなかったが、支那語を書くことが出来た。我々の伝言を伝え、彼が
そのことを紙に書いたので、それは遂に老ペーチンに読解された。」
ハイネの絵には、大きな魚を4~5匹ぶら下げている人物も描かれている。
地元から手に入れた物は鶏、卵、薪だけではなかったのだ。
琉球の人々が丘の木を切らさせなかったのは、その丘の辺り一帯が御獄や拝
所のある聖地だったため強く反対したのだろう。
丘には井戸〔現在、御殿小左ヌカー、右ヌカーと呼ばれている〕もある。いい野
営地だったのではないか。
なお、「長い、白いあごひげを伸ばした堂々たる風采の人物」と称された老ペー
チンは、この奥地探検隊の接待相手を王府から任されたときには、探検隊の
目的など詳しい事情は知らされていない。王府自体が6日間の島内調査だとい
うことをベッテルハイムの使いからは知らされていなかったのだろう。また賢明な
ベッテルハイムが伝えるはずもないが・・・・。
かわいそうな老ペーチン。那覇を一行が出発した頃から探検隊の目的に疑惑
を抱き不安があったようだが、公館(首里高校裏側の安国寺の西隣りにあり、
「御客屋」とよばれていたという)までは案内し懇切丁寧に接待し、なんとかうま
く帰艦させようと考えていたかも知れない。
それが6日間も探検隊と忍耐強い行動を共にする。「模範的忍耐と善良な性質」
を持ったと報告に記されている喜屋武親雲上、どのような人物だったのだろうか。
なお、老ペーチンは、ペリー提督が総数2百名以上の隊を引き連れ首里城に上
るため6月6日(1853年)那覇に上陸したとき、那覇で出迎え首里に案内する
責任者でもあった。
1853年6月6日、ペリー一行の首里城訪問から帰途の図。ハイネによる絵。
首里観音堂前から坂道を下るところ。
総勢200名以上の「よく整えられた絵のようだった」と『訪問記』に記された行
列の様子は次のとおり。
先頭は大尉の指揮する二門の野砲。各砲の上には米国旗が掲げられ砲兵
が列する。琉球滞在九年間で初めて首里城に入場するベッテルハイムももう
一人の通訳とともに砲兵たちの前に加わっている。
大砲の次には海兵隊中隊と楽隊が続く。そしてペリー提督の乗った輿を担ぐ
8名の支那人。4人づつが交代で肩代わりする。輿の両側に一人宛の護衛の
海兵とペリー提督の側近従者(小姓として選ばれた美少年と支那人給仕)。
この椅子付きの輿は、ペンキやパテを塗り立て赤や青の掛布で飾った威厳の
ある大きく堂々としたものもので。船大工が間に合わせで造っている。
ペリーの輿の後には、艦隊参謀長、提督副官たちと、二人の護衛がついた王子
や王母への贈り物の輿を担ぐ6人の苦力(くーりー)、従僕を従え遠征隊の士官
の先頭に立つ各艦長たち、次に別の艦の楽隊、最後に一個中隊の海兵隊と続
く。この絢爛たる行列の道の両側には多くの群衆が集まっていた。
老ペーチンに戻る。
後日、ペリー提督は、奥地探検隊のテイラーやハイネを伴って波の上にあった
ベッテルハイムの邸宅(護国寺)で老ペーチンに会い贈り物をしている。
ティラーやハイネも奥地探検隊案内の謝礼の意味で広東製の絹のハンカチを
数枚添えたという。
ひょっとしたら老ペーチンこと喜屋武親雲上は、当時の江戸幕府や琉球王府の
中では、ペリー提督から私的に贈り物をされた唯一の人物ではないだろうか。
ベッテツハイムについては照屋義彦著『英宣教医ベッテルハイム ーー琉球
伝道の九年間ーー』(人文書院、2004)が面白く素晴らしい本だ。
脱線するときりがなくなる。
野営地CAMP PERRY に戻る。
奥地探検隊が夜営した場所。西原町字小橋川にある御獄などのある
小高い丘。この一帯は「上ヌ松尾」と呼ばれている。かっては松の木が
生い茂っていたという。現在も数本の松の木が立っている。
現在、丘の前は小橋川公民館や西原南小学校のある住宅街。丘の一
部に保育所。丘の後方に西原町商工会の建物がある。車で行くには保
育所か商工会を訊ねていけばいいだろう。
露営地跡の記念碑が丘の広場に設置されている。
記念碑の設置されている丘から知念半島を望む。
この写真を撮った日は曇り空で、あいにく半島は灰色の影。
ハイネの絵では半島はもっと鮮明なので、5月の末頃、沈む夕陽が
つくる半島の影の形をハイネの絵と照らし合わせれば丘のどの位置
あたりから描いたかが分るかも知れない。
首里弁ヶ岳の北側約300mほど北側の丘(墓地のある場所)から西原
町方面を望む。
奥地探検隊一行は弁ヶ岳で一休みしたあと北に向かって進んでいる。
『訪問記』には次のような記述があるのは、この辺り一隊のどこかの場
所からの眺望ではないだろうか。
「半哩も進まないうちに、この島の分水嶺、すなわち島の絶頂に達した。
そして壮大な眺望が東方にあたって眼下に開けた。太平洋の水平線が
限界圏をなしていた。・・・
我々と海との間には丘で囲まれた円形劇場(を見たような形をしたもの)
があった。その丘は頂上までも耕作されて、極く濃い青葉の衣をまとっ
ていた。その丘の中腹は入念に段々畑にされており、その灌漑用に雨水
を集めるため、土地の傾斜面の全ゆる有利な点が活用されていた。耕作
は支那の耕作のように、非常に忍耐強く周到に行われてた。
絵のように美しい丘の成り立ちは、その風景に、非常に変化に富んだ輪
郭を与えており、そして輪郭は、凡そ二十哩の範囲を取り巻いていた。
西の方に、我々が過ぎてきた全地域を見下し、北西の方に在る一つの岬
〔勝連半島のことだが、このときは本部半島と思っていたようだ〕まで遠く
見晴るかした。」(同上)
奥地探検隊一行が西原のペリー野営地までいった経路は、おそらく上記
写真の高速道路の下を通る「歴史の道」(弁ケ岳→池田→桃原→小波津→
・・・)の経路をたどったのだろうと思われる。
「歴史の道(ハンタ道)」については、『沖縄県歴史の道調査報告書Vーー
中頭方東海道ーー』(沖縄県教育委員会、1988,3)に掲載された地図
(これは西原町教育委員会からコピーを頂いた)を参考にした。
奥地探検隊が通った当時の道の雰囲気を味わえる「歴史の道」がある。
1カ所は、中城村北上原の消防学校側→同村新垣に至る歴史の道。
山の斜面を登り降りする急な坂道。現在は坂は階段で整備されて興ざ
めするが高い樹木が生い茂る山中は『訪問記』の記述を思い浮かば
せる。
もう1カ所は恩納村山田城のある山腹を通る歴史の道。
長い道草から「中城城跡のツワブキ」に戻る。
ウフガー(大井戸)のツワブキ
ウフガーへの降りる。途中にツワブキが幾つか咲いている。
ウフガーの表示板は見るがウフガーへは下りない観光客もいた。
足腰が弱いため下りない年配の方。興味がなさそうに通り過ぎる方
(あるいは時間が気になるのだろうか・・)。何が怖いのかわからないが
怖いという方と人いろいろ。
ウフガー(ウフ=大きい。ガー=井戸)への降る細い石階段。
昨年、訪問した頃はツワブキはまだ蕾だった。年明けになると花を咲かせ
ている。薄暗いウフガー樹木のしたへ下る石階段の曲線と手前の毀れた
石垣を組み合わせるといい構図ができたが、ツワブキの花が並んでしまっ
た。これは仕方がない。もう少しツワブキの花も欲しいところ。
階段を降りる人物が配置されると色が多くなり雰囲気が出るかも知れない。
何枚か人物を入れて撮った。
細い階段を降りる3名の観光客が良い具合の配列になったのが気にいり、
すぐ上の通路(三の郭への石階段前)から撮る。
右側のハブ注意の看板。どうするか迷ったが白い色が画面を引き締め
ている役割を果たしていたので組み入れた。
ウフガーへの階段を二の郭の城壁の上から撮る。
紅い上着と青い上着を着けた観光客が通る。
ソテツの右と左に、いいタイミングでうまくそろってくれた。
このツワブキはごく最近花が多くなった。
後方のツワブキはまだ蕾のままでこれからだ。
ウフガーへ下る途中から三の郭へ上がる石階段の方を見る。
写真の左上に見える石積みは「物見台」の壁。
ウフガー。
「岩に刻み込まれてある険しい階段が、城の北側で城の土台の下方にある、
一つの洞穴の方に下りて行っていた。そしてその洞穴の底には、冷たい淡
水を湛えた池があった。同場所は茂った樹葉で完全に覆われて、太陽の光
線が届かなかった」(『ペリー提督沖縄訪問記』より)
裏門のツワブキ
裏門の場所でもツワブキの素晴らしい絵が撮れる。
裏門の脇。ここ数日でずいぶん開花。まだまだ満開ではない。
訪れる日増しに開花する花たちを撮っていると、ツワブキの城、中城城跡の
もっとも花が満開の時の情景を撮りたいと欲が出てしまう。
何度も訪れないといかないので悩みになる。
付加価値が必要だ。他の目的もつくらねばならない。
昨日、城址でツワブキにではなく他のものにカメラのレンズを向けている方に
出会った。タンポポの花を撮っていた。
裏門を出て左手に立ち並ぶツワブキの花。
裏門の外壁が入るように、芝の上に仰向けに寝た姿勢のローアングルで
撮る。
上と同じ立ち木(桜)とツワブキ。通路から土手下に降りて反対側から撮影。
ここからは、三の郭の城壁が日陰になるのがやや欠点。
観光客が裏門から出てくる時が雰囲気のある絵になるがやはり日陰になる。
階段を下りて平坦な路を歩く場合は全身ツワブキの陰に隠れてしまう。
縦の構図にする。ツワブキの花で画面が埋まるように工夫。
地元では中城城跡のことを
「ツワブキの城」と呼称する。
中城城跡に咲くツワブキの花の歌がある。
平成24年5月中村弘光氏が作詞、竹内 豊氏が作曲をしている。
ツワブキの城
一 歴史刻みし 石垣の
雅(みやび)な姿 今に見て
古(いにしえ)招く アーチ門
あゝ愛よよみがえれ ツワブキの城
二 曲がりくねりし 城壁に
栄華の昔 偲(しの)べども
海原望む 風の音(ね)が
あゝ愛よみがえれ ツワブキの城
三 天に聳える グスク美は
護佐丸公の 夢の跡
鎧(よろい)の勇姿(ゆうし) 目に浮かぶ
あゝ百十兆(ももとちょう)まで ツワブキの城
※ 「百十兆まで」=百千年・億兆年まで
帰路の路傍のツワブキ
心なごりの城跡を後に出口に向かう。
広場の奥に桜の木がある。花が二輪咲いていた。
城趾の周囲に桜の木は多い。桜の花の咲く頃もいい花見ができるかも
知れない。
帰路もツワブキの花が撮れるのでやっかいだ。帰れなくなってしまう。
ガジュマルとツワブキ。
ガジュマルの気根が成長した白い根がいい背景になっている。
ソテツと紅い実を背景のアクセントにツワブキの花を撮る。
ツワブキの城 --中城城跡のツワブキの花の満開の日はまだ続き
そうだ。しばらくは新春にふさわしく華やかな黄金色のツワブキの花を楽しめる。
(追)
1月13日。
中城村内の「歴史の道」=中頭方東海道(琉球王朝時代の首里城から勝連
グスクに至る道)を歩くため中城城趾に行く。
嬉しいことに城趾裏門前のツワブキがかなり開花していた。
裏門の横。桜の木にピンクの花が咲いていた。
桜の花がもう少し咲くまで、ツワブキの花よどうか散らないで欲しい。
正門前のツワブキも、南の郭の城壁をバックに満開状態。
アングルを少し変え城壁の高さを強調する。
前回撮った時より花が満開に近くなり下方に広がっていた。
城内のツワブキで十分満腹したのか、帰り道にあるこの花の前を素通り
する人は多い。
ガジュマル、岩垣、ツワブキの三拍子そろった絵になる被写体と思うが・・・。
城趾を離れ「歴史の道」(ハンタ道)の内原の殿近くで見つけた桜の花。